小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

ソフィーの物語 no.1

 今日もまた、曖昧な夢の中で目覚めた。このところもやもやした思いだけが残る夢が続いている。ソフィーはしばらく天井を眺めていたが、意を決し、ベットからゆっくりと起き上がった。カーテンを開けると、外はまだ夜が明け切らない薄暗さを残している。寝起きのすっきりしない頭でコーヒーを淹れにキッチンへ行く。テラスに面した窓の外で、黒い子犬がm&mチョコレートのような黒くて艶のある丸い鼻を窓ガラスに押しつけている。その眼は、チョコレート色の鼻と同じように黒くて真丸。真っ直ぐな視線でソフィーを見つめている。その子犬は昨日の昼にこのテラスに迷い込んできた。首輪はなく、夕方には見えなくなった。

 子犬はソフィーから目を離さない。「また来たのね、お腹空いてるの?」窓越しに子犬に声をかけた。遊びに来たのだろうか、迷子だろうか。生後何ヶ月ぐらいだろうか、まだ足元にどことなくおぼつかない感じが残っている。ソフィーは子犬のために棚から白いカフェオレボールを取り出した。窓からの日差しが明るさを増しはじめ、鳥のさえずりが静かにはじまった。息をこらした夜の重さから解放され、有無をいわさない現実の重さが目を覚ます前の、ほんのわずかな狭間の時間。

 その時突然玄関の呼び鈴が鳴った。ソフィーの心臓は飛び出しそうなほど驚いた。「こんな朝早く、いったい誰が」ソフィーは慌ててガウンを羽織って玄関の扉を開けた。そこにはガウン姿のマイケルが頭を掻きながら緊張した面持ちで立っていた。マイケルは、最近隣に引っ越してきた人で、リモートワークになったのを機にここへ越して来たのだという。

 「こんな朝早くから申し訳ない、実は今朝起き抜けにモーレツに腹が鳴って、いや、モーレツに腹が減って目が覚めてが正しいかな」と言うと緊張の面持ちが少し緩んだ。「とにかくキッチンの棚を覗いてみたら、どうやらパンを切らしているらしく、朝食のパンが一切れもないんです。その時、キッチンの窓越しに、お宅の窓に人影を見たもので、お隣さんがもう起きていらっしゃるなら、厚かましいとは思ったものの、どうにもこうにも腹が減って、お宅に余分なパンがあれば分けていただけないものかと」相変わらず頭を掻きながらしゃべるマイケルは、恐縮しながらもどこか無邪気だった。その無邪気さはマイケルの恰幅の良い体型、特に愛嬌のあるお腹周りと相まって憎めない空気を醸し出していた。

 そんなマイケルにソフィーは快くバケットの3分の2を分けてあげた。ここは町から外れた崖の中腹にあり、辺りに早朝からやっている店は皆無だ。ソフィーがパンを分けてあげなければ彼はまともな朝食を食べそびれてしまっただろう。マイケルは喜びと感謝を充分に表明して隣の家へ帰って行った。

 ソフィーにとってマイケルという存在は近くて遠い存在だと感じている。ソフィーが持ち得なかった世界に彼は居る。マイケルはどこか子どものような無邪気さがあり、この世に恐いものなど何もないといった泰然とした大らかさがある。それでいてその恰幅の良さからだろうかユーモアに溢れた世界を運んでくる。そんなマイケルを前にするとソフィーは決まって無償の笑みを差し出したくなるのだ。

 ソフィーはそんなマイケルを見送ると、キッチンに戻りテラスのガラス戸を開け子犬を中に入れてやった。子犬はまだぎこちない足取りでソフィーの足元に寄って来て、小さな鼻面を押しつけた。ソフィーはそんな子犬を抱き抱えると、ミネラルウォーターをカフェオレボールに注ぎ電子レンジで人肌に温めながら「少しだけね、お腹を壊しちゃいけないから」と話しかけた。温まったミネラルウォーターにビスケットを砕いて入れふやかしてからテーブルの真ん中に置いた。子犬をそっとボールの前に置くと、すごい勢いでボールの中身を平らげた。子犬はさらにボールの中をきれいに舐め回すと、口の周りを食べかすだらけにして満足そうな顔でソフィーを見上げた。その顔は、まるでさっきのマイケルのようにこの世に恐いものなど何もないといったような顔だ。その時ソフィーはこの子犬を飼う決心をし、ジルと名づけた。

 

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No.15 秋風の心地良い頃に彼はやって来た

No.15 秋風の心地良い頃に彼はやって来た 

 

 秋風の心地良い頃に彼はやって来た。彼は親しげな顔で、窓から半分だけ覗かせ玄関の戸を叩いた。彼女は彼の顔に見覚えがあった。彼は以前、空き家だったこの家を管理していた管理人だ。彼女が玄関の戸を開けると、彼は籠いっぱいの林檎を抱え幸せそうな顔で立っていた。

 彼は挨拶もそこそこに「お宅の裏の森には野生の林檎の樹が沢山あるんですよ。知っていましたか。見てください、この林檎、真っ赤な美味しそうな色でしょう。今裏の森で採ってきたところなんです。昔は秋になると大きな妖精さんと一緒に林檎狩りをしてましてね」と話し出した。

 彼は大叔母のことを大きな妖精さん呼ぶ。彼女も子供のころ大叔母のことを年老いた妖精のようだと思ったものだ。大叔母の顔には長い年月を、自分を失わず立派に生き抜いた者だけが持ち得る品というものが、根っこのある精神の強さがつくりだす軽やかな品というものがあった。

 彼女は彼をリビングに招き入れお茶を勧めたた。リビングのテレビでは若者の自殺のニュースが流れていた。二人は残念な気持ちでそのニュースを聞いた。その時彼は真面目な顔で話し出した「人の心の落ち着き先は、内側から自分自身になること。そこへたどり着いた人には内なる魂がこう囁いてくれる”これでいいのだ”と。そこに絶望はない。ただそこへ辿り着くには時間がかかる。だから焦ることなく生きることです」。話終えると彼は急に顔を崩して照れ臭そうに付け加えた「そう、大きな妖精さんは言っていた」。

 その後彼女はお茶を飲みながら、彼から大叔母の人柄や思い出話を聞かせてもらった。彼は帰り際に籠いっぱいに摘んだ野生の真っ赤な林檎を見せながら「これをこれからジャムにする」と言い、「ジャムが出来たら届けに来る」と約束してにこやかに帰って行った。

 

 

「そこではいつも、何も思い出せなかった」

 

 そこではいつも、何も思い出せなかった。目覚めると私は、微かな記憶の琴線にひっかかる、不可視の闇の中にいた。そんな時、やるべきことはただひとつ、五感を研ぎ澄ませることだ。五感のアンテナをピンと立て、今いる世界を把握することだ。

 ずいぶんとヒンヤリした空気だ、風がない、ここは室内なのだろうか、静かだ、すべての生きものが眠りに就いたかのようだ。なんだろう、暗闇の中になんだか白っぽいものが浮かんでいる。ひとつ、ふたつ、みっつ…、いや、ずいぶんな数だ。なんだろう、整然と並んでいる。墓石か?ここは何処だ。

 ここは何処だ!その問いで胸の奥にかすかな痛みと不安を感じ、私は自分の身体を確認した。半身を起こした私の身体は、腰まで白いシーツで包まれていた。すぐ近くに微かな生きものの気配を感じる。なんだろう…。私はその気配に意識を集中した。それの気配は私の右にあった。私はゆっくりと首をまわしながら右隣りを見た。そこに居たのは白髪の老人だった。彼は堅い石のベッドの上に白い布を肩まで掛け、仰向けで眠っている。横から見た老人の顔は鼻が高く、その高い鼻はスッと天に向かって滑らかに延びていた。耳から顎にかけて白い髭が品良くたくわえられ、顎下の髭は10cmほどあった。誰だろう…。石のベッドの高さはダイニングテーブル位い、70cmほどだろうか、幅は80cmほどでやや狭い。私は自分のベッドを見た。私のベッドも老人と同じ石のベッドだった。

 私は老人から目を離し、もう一度目の前の闇の空間を眺めた。目が暗闇になれてくるにつれ、同じような石のベッドは私の前後左右に等間隔で並んでいるのが見えて来た。そのベッドは果てしなく遠くまで整然と並んでいる。それらすべてのベッドに人が眠っている。前にも見たことのある光景だ。デジャブだろうか…。私は白髪の老人と反対側の左隣りのベッドを見た。そこには美しい青年が眠っている。その青年に掛けられた白い布は腰まで押し下げられ、足の先は白い布から突き出されていた。それが何か釈然としない感じを受けた。しばらく暗闇の中に白くぼーっと浮かび上がるように横たわる青年の姿を見ていた。それから私はようやく思い出した。以前にも私はこの闇の中で目覚めたことがある。そのとき青年の白い布は彼の肩まで掛かっていて、足の先も布で覆われていた。彼は誰だろう…。ここは何処だろう…。

 私はやっと思い出した。そうだ、私はこの闇の中で、何回も目覚めている。ここでは何故か、何時も何も思い出せないのだ。私は、何故ここに居るのだろうか、私は誰なのか…。

 「私は誰なのか」私の内側が発したこの言葉は私に、闇の中で闇を発見したような恐ろしさと不安を突きつけた。私は何者か、私は何故ここに居るのか、私な何をする者か、何をしてきた者か…、次々に言葉が私を責め立てた。私はその問いになす術もなく途方にくれ、闇の中で渦巻く問いの嵐に耐えながら、ただ佇んでいた。どのくらいそうしていただろうか、気がつけば問いの嵐は遠くの彼方へと去り、辺りは再び無言の暗闇が支配していた。

 しばらくして右隣りの老人が突然起き上がった。眠りから目覚めた老人は白い布をゆっくりと払い、堅い石のベッドから慎重に降り立った。「どうなされました?」私は老人にそっと尋ねた。老人は私の質問にゆっくり振り向きながら応えた「ようやく、自分の本当の名前を思い出したもので」。彼は、幸福そうな穏やかな笑みを浮かべると「では、失敬」と言って、風のように軽やかに、音もたてずに立ち去った。

 老人の残り香だろうか、私の鼻先に、ほのかに恥じらうような甘い香りが漂った。老人の立ち去ったベッドを見ると、ベッドの上には、ふっくらと、今まさに弾けんばかりに膨らんだ薔薇のつぼみが一輪、見事な真紅な色で横たわっていた。私は思った。名前を忘れた私には、どうやらまだ目覚めの時は訪れていないのだろう。私は白い布を肩まで掛け直し、再び静かな眠りに就いた。

 

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No.14 その日は何故か朝早く目が覚めた

No.14 その日は何故か朝早く目が覚めた 

 

 その日は何故か朝早く目が覚めた。どうした訳だかいつになく清々しい気分だ。その理由に心当たりが見つからない。それでも彼女はその気分に乗って、早朝の散歩に出かけることにした。ストールを羽織って玄関を出ると、外は少し靄っていた。

 足取りは踊るように軽かった。何かがいつもと違うと感じた。でもそれは懐かしい感覚でもあった。その懐かしい感覚を全身で味わいながら夢遊病者のようにゆったりと歩いて行くと、道端の花がいつも以上に愛想良く語りかけてくる。足元の砂利もいつも以上に楽しげで、弾むような音で私の歩きを伴走する。世界を感じる感覚のセンサーが日常の重さを脱ぎ捨て、超自然の感覚で動きはじめたのだろうか。私は今、あの懐かしいセンス・オブ・ワンダーの魔法の掛かった世界にいる。

 外は相変わらず靄が掛かっている。靄の掛かった世界で、心の見通しはとても良い。今日は間違いなく良い日だ。この気分の変化はいったい何がきっかけだったのだろうか。でも人にはそんなことはよくあることだ。人の気分はあまりに気まぐれなのだから。そう思うと彼女は心から願った。こんな贅沢な日は、そんな気分と心ゆくまで戯れていたい。

 

 

「突然の春の訪れに」

 

 目の前に真っ白な道がある。その道はどうやら砂利道のようだ。空気は乾いている。砂利は磨き抜かれた玉のような綺麗な丸い形をなし、粒の大きさも揃っている。その砂利はまだ一度も人に踏まれたことがないような真っさらな美しさで白く輝いていた。道幅は人がふたり手をつないでのんびりと歩くには丁度いいと思える幅だ。その道は真っ直ぐに何処までも延びていて、遠くのほうで消え入るように空と交わっている。空も真っ白だ。すべてが真っ白だ。そして静寂だ。

 目の前の光景は絵空ごとのように美しく、なのに私にとってどこか懐かしい。そんな光景を私は飽きることなく見ている。とにかく気持が好い。私はついにここへ還って来たのだ。そんな想いが湧いてくる。私は長いこと再びこの世界に戻ってくることを望んでいた。それは何故か泣きたいほど確かなことだった。胸が痛い。凛とした痛さだ。そう感じた瞬間、胸の痛みは凛とした痛みから、切なさに変わった。いったい何が切ないのだろうか。よく分からない。でも、何かを惜しむような、懐かしむような切なさだ。

 そのうち真っ白だった空に青味が差してきた。ついで白い玉砂利の下の大地からは砂利を押し退けるように若々しい緑が顔を出し、あれよあれよと云う間に白い砂利道は柔らかな緑に覆われてしまった。さらに大地からは無数の虫が這い出し、その脇では天と地を支える大黒柱のように太くて黒い幹が天に向かって伸び、その先には芽吹いたばかりの桜の蕾をつけた枝が、青い空に翼を広げるように張り出していた。

 私は突然の春の訪れに違和感を感じながらも、まだ若い緑に覆われた砂利道を歩き出した。砂利は私の足下でジャリジャリという音が生み出している。一歩一歩、ジャリジャリと耳に響く。他に音は聴こえない。しばらく行くと、電子的な雑音が耳に入ってきた。まるで、壊れた工場のサイレンのような単調で耳障りな音だ。壊れたサイレンのような音は、かなり長く響いた。その後、耳障りな一本調子を止め、今度は何やらが鳴るようないななくような音を出している。不快だ。その音は、私が一歩々々歩く度に近づいてくる。

 砂利道の右手には緑の生け垣がずっと続いている。垣根越しに男の後ろ姿が見える。頭には白髪がまじり、猫背になった背中からは張りの無くなった筋肉と余分な脂肪が感じられる。男はエレキギターを抱えている。ギターからはチョークで黒板を引っ掻くような音、子どもが棒切れでトタンを擦るような音が響いている。不快だ。

 その不快感には現代音楽のような高尚な響きはカケラもない。人を不快にするだけに発せられた音のように、ただただ不快だ。男はそんな音の響きの中に浸りきっている。まるで子どもが不快な音を夢中になって楽しんでいように。飽きることなく。不快な音は彼の存在そのもののように思えた。この男の日常はこんな音に彩られているのだろうか。彼の人生はずっとこんな音の中にあったのだろうか。

 男の後ろを垣根越しに通り過ぎ、歩き進んだ。不快な音はまだ私を追っている。しばらく行くと左手に小さな橋が現れた。それを渡ると私はまた左に折れた。私は川に沿って進んだ。その川の向こうにはさっき通り過ぎた生け垣の道が見える。男が発する不快な音は、川を渡って私を執拗に追ってくる。この道で不快な音から逃れるすべは当分の間はなさそうだ。だが耳を塞いで歩くのは不自由さを感じる。私はどうしたものかと思った。

 考えた。町中で突然の雨に降られるのは不快だ。道路を走り去る車に泥を跳ね飛ばされるのはもっと不快だ。けれどいっそ、身を隠す場所のない原っぱで、ドシャ降りの雨に全身すっぽり濡れてしまったなら…、そんな時はきっと両手を広げて天を仰いで笑ってみせるだろう。泥んこの中に全身どっぷり浸かってしまえば…、きっと腹の底から笑いが込み上げる。私は不快な音にどっぷり浸かってみることにした。私の腹の中から、開き直りの開放感が湧き出てきた。やがて不快な音は遠くに去っていった。

 犬の吠える声がした。前方から子どもを抱えた女がやってきた。女は左手でまるまる太った赤児を抱え、右手で落ち着きなく動き回るもうひとりの子供の手を引いていた。足下には犬がまとわりついている。母と子は、砂利道から外れた草むらを歩いている。その母の姿は逞しい。女の繊細さや可憐さは微塵も感じない。とにかく逞しい。大地を踏みしめる肉の塊のような頑丈な足、子どもを抱きかかえる太い腕、何でも食べ何でも消化してきたどん欲な胃袋、脂肪の塊のような図々しい腹。彼女の存在はブルドーザーのように逞しい。脂ぎった逞しい身体は陽の光を照り返し、輝いている。彼女は美しかった。

 しばらく行くと、満開の桜の枝が砂利道に大きく張出していた。桜の枝は砂利道の上空をすっぽり覆い、桜のトンネルをつくっていた。私は満開の桜のトンネルに入っていった。辺りにはまた静けさと清々しさが戻った。桜のトンネルの向こうから、痩せた老紳士が砂利道を歩いてくる。彼はゆっくりとした足どりで私の脇を通り過ぎて行いった。すれ違いざまに思った。彼は自分の人生に満足しているのだろうか。たった今すれ違った彼の表情を思い出すことができない。彼の通り過ぎた道には、微かに甘い香りがする。私は振り返りたかったが振り返らなかった。

 うぐいすが鳴いた。桜の枝から芋虫が降りてきた。風の柔らかな音がする。風の音に混じって水の音がする。左手に流れる川の音だ。川には風に乗った桜の花びらが舞い散り、ところどころで塊りをつくっている。ひと塊りの桜の花びらはまるで浮島のようだ。薄紅色の浮島はゆっくりと流れていく。そのゆっくりとした川の流れる音を聴いていた。と、不意に川に吸い込まれそうになった。おやっ、と思ったがなおも川の流れを聴いていると、川の流れが恋しく思えてきた。気がつくと私は思わず川に飛び込んでいた。

 川の中で私は魚になった気分だった。私は泣きたくなった。泣いた。私の頬をつたうものは涙なのか、川の水なのか…。確認のしようもなかったが私は大量の涙を流したと思う。まるで何千年も泣いていなかったかのように思えた。私はそのまま流されていった。流されながらただ泣いた。とにかく泣きたかった。泣くのに理由などいらなかった。涙の涸れるまで泣き続けて眠った。

 

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No.13 南に面したテラスからの眺めは開けていた

No.13 南に面したテラスからの眺めは開けていた 

 

 南に面したテラスからの眺めは開けていた。そこは雑草が茂る空き地が広がっているだけだった。空は穏やかに晴れ、小鳥のさえずりが静かな一日のはじまりを告げている。テラスのテーブルには好物のフレンチトーストとフルーツの甘い香りが鼻をくすぐり、コーヒーの香りが一日のはじまりに活を入れた。

 この家は村外れにあり、隣の家の玄関までは歩いて三分はかかる。彼女の暮らした都会の町では家同士が肩を寄せ合うように並ぶ町だった。そんな彼女にとって隣の家まで三分の距離というのはとても遠く離れている感覚だ。そんな都会生まれで都会暮らしだった彼女にとって慣れない環境への移住に周囲は皆心配した。しかしこの家で何十年も立派に独り暮らしを全うした大叔母も、都会生まれの都会育ちだった。だから彼女はこう思った「私にだってきっとできる」と。

 彼女が二杯目のコヒーをすすっていると、車のエンジンの音が聞こえて来た。お隣さんはいつもこの時間に小さなトラックに乗って彼女の家の前を通る。車のエンジン音が近づいて来るとトラックに乗った夫婦が彼女に向かって、朗らかな声で「おはよう」と挨拶をくれた。彼女も夫婦に届くように大きな声で挨拶を返した「おはようございます」。

 車のエンジン音が遠ざかると、後には風の囁きと鳥たちのさえずりと、穏やかな陽射しだけが残った。満ち足りた気持ちでぼんやりと目の前の空き地を眺めている。伸び伸びと茂る雑草の向こうに、村の中心部が遠くに小さく見える。そこには建設中の背の高い建物があり、建物の高さは今や村の常識を遥かに超える高さになっている。それは、彼女が都会に置いて来た風景、バベルの塔を建て続ける都会の風景と重なって見えた。

 

 

「牛飼いと天の陽と風の妖精」

 

 牛飼いの目線の先には草に覆い尽くされた古代の遺跡が、まるで小高い丘のようになだらかな台形を描き、大地に寝そべるようにして鎮座していた。その足元ではところどころで石垣が顔を覗かせている。その手前で牛たちが大地の草を喰んでいる。草の匂いが深い呼吸とともに体の隅々にまで染み渡る。そんな大地で牛飼いはいつもと変わらないひと時の中にいた。天の陽は穏やかで風の妖精は無口で大地は平穏な静寂だった。

 昼が過ぎ太陽が天の階段を降りはじめた時、風の妖精の驚く声とともに聴き慣れない機械の音が聞こえてきた。やがて機械の音はブルンブルンゴォーゴォーガタガタという無作法な音を轟かせ、黒い二つの点とともに草に覆われた遺跡に近づいてきた。平穏だった静寂な大地に無作法な音を立ててやってきたのは二台の小型ジープだった。

 ジープが遺跡の前で止まると、先頭のジープからスーツ姿の男が体の土埃を払いながら降りて来て、草に覆われた遺跡を眺めた。続いてジャンパーを着た背の高いもう一人の男が降りて来て、スーツの男と何やら話し込んでいる。後続のジープからも作業服姿の男が二人降りて来ると、遺跡の周りを歩きはじめた。しばらくするとスーツの男が運転手の待つジープに戻り、その後をジャンパーを着た背の高い男が追いかけるようにして慌ててジープに乗り込んだ。二人が乗り込むとジープは直ぐに走り出し遺跡の周りを回り出した。遺跡の周りを歩いていた作業服の男たちも慌てたようにジープに戻り、先に走り出したジープを追いかけた。ジープは遺跡の周りを二、三周するとそのまま走り去って行った。

 その後半年ほどして、何台もの小型トラックと作業員がやって来て遺跡の周りを調査しはじめた。さらに半年ほどすると、大型トラックと大勢の作業員がやって来て遺跡の草を払って丸裸にし、その上部を綺麗に平らに馴らした。そうして彼らの社運を賭けた一世一代のプロジェクトがはじまった。

 彼らは遺跡の上に赤土色のブロックを積み上げていった。円形にうず高く積み上げられたブロックは次第に威圧感を身につけ、かつて素朴な小高い丘に過ぎなかった遺跡は今や威厳のある建造物へと変貌を遂げた。赤土色のブロックを積み上げた巨大な建造物はまるで禿山のようだった。その禿山を背景に牛たちは変わらず大地の草を喰んでいる。天の陽も相変わらず穏やかで風の妖精は無口で大地は平穏だった。

 ある日、工事の現場監督は現場に架かけられた梯子から降りて来ると、筋肉の盛り上がった腕を振り上げ作業員たちの手を止めさせた。作業をやめた作業員たちは大地で寝転び止まった時間を過ごしていた。現場監督は苦虫を噛み潰したような顔で建造物を見上げたまま動かない。どうやら問題にぶつかったようだ。そうして現場が止まったまま半月が過ぎた頃、ジープに乗ってジャンパー姿の背の高い男がやって来ると、現場監督と背の高い男の長い口論がはじまった。口論の間、現場監督は常に怒っていた。その怒りは遂に解消されることなく口論は打ち切られ、現場監督は打ちひしがれた。

 そして工事が再開し、再びブロックが積み上げられていったが、そこでまたもや現場監督の手が上がり工事が中断された。どうやら又も問題が発生したようだ。再びジープに乗ってジャンパー姿の背の高い男がやって来て現場監督と口論をはじめた。この時も現場監督は常に怒っていた。そしてその怒りは今回も解消されることなく口論は打ち切られ、その半月後、幾分軽くなったブロックが運び込まれ工事は再開された。

 軽くなったブロックのおかげで工事のスピードが上がり、ブロックはさらに高く積み上げられていった。しかし再び問題が起こり、再びジャンパー姿の背の高い男がやって来て口論が再開された。そこでも現場監督の懸念は受け入れられず、堪忍袋の緒が切れた彼はレスラーのような逞しい足で梯子を蹴っ飛ばすと、大地を踏み鳴らしながら現場を去って行った。天の陽は相変わらず穏やかだったが風の妖精が何やらヒソヒソ話をはじめ、大地の上を忙しく行き来した。お陰で大地は幾分か平穏を乱された。

 再び工事が再開された時、新任された現場監督は挨拶を省いてメガホンを響かせながら遅れた工事を急がせた。そうして遺跡の上に積み上げられたブロックの高さは既にかなりのものになっていった。天の陽は相変わらず穏やかだったが、遺跡の周りでは風の妖精たちのヒソヒソ話がいっそう騒がしさを増していった。牛たちは風の妖精たちの騒がしさをその細い縄のような尻尾で振り払い、高く積み上げられていく遺跡の建造物に背を向け大地の草を喰んでいる。

 工事は順調に進み完成間近に思えた。そんなある日、新任の現場監督のもとに上司からの伝令が届いた。それを聞いた現場監督は眉間にシワを寄せてしばらく固まっていたが、やがてメガホンを取り工事の中断を告げた。その数日後、更に新しくなったブロックを携えジャンバー姿の背の高い男がやって来て、現場監督との打ち合わせが行われた。打ち合わせの間中、現場監督の顔は険しかった。

 その翌日工事は再開された。ジャンパー姿の背の高い男が持って来た新たなブロックの表面には「Higher」という文字が書かれていた。現場監督のメガホンのもと「Higher」は積み上がっていった。「Higer」は以前より更に軽くなっていた。だが現場の人間たちは、軽さだけでなく「Higher」の脆さを感じ取っていた。

 梯子は天に向かって真っ直ぐに伸び、その高さは目が眩むほどになていた。現場監督は、長さの限界を超え、ひょろ長く伸びた梯子と、脆さを見せる「Higher」と書かれたブロックを睨みながら黙っていた。現場の安全管理は現場監督の大事な仕事のひとつだ。やがて彼は工事を中断させた。どこの世界でも工事の遅れは上層部を苛つかせる。そんな上層部の苛つきを携え、ジャンパー姿の背の高い男が再び現場にやって来て現場監督と頭を突き合わせた。その結果、現場監督は懸念の全てを投げつけて去って行った。

 牛飼いは天に向かって伸びる塔のような建造物の天辺を見上げた。そして視線を牛たちに戻しながら溜め息をついた。牛飼いは今や塔の天辺と、大地の草を喰む牛たちとを同時に視界に入れることが困難になっていた。天の陽は少し陰りを見せはじめたようだった。その下で風の妖精たちのヒソヒソ話は既にヒソヒソ話といえる音量を超え、塔の周辺の風は勢いを増していた。牛飼いは立ち上がり、牛を引き連れ牛たちが健やかに育つ環境を求めて歩き出した。

 工事は再び新しいブロックと新しい現場監督のもと再開された。さらに新しくなったブロックはまるでパズルのような複雑な形をしていた。そのブロックには「Higher」の文字の脇に小さな字で細かな指示が書き込まれていた。新しい現場監督の手元には本社から送られて来た詳細な設計図があった。彼は設計図に書き込まれた細かな指示とブロックに書き込まれた指示を突き合わせながら工事を進めた。現場はいつだって机の上の設計図と微妙なズレが生じるものだ。しかし、現場監督はそのズレを無視し、病人が病を押して仕事をするように、無理を承知で工事を進めていった。ブロックはどんどん高く積み上がっていった。

 今や古代の遺跡の上に建てられた建造物は天に向かって聳え立つ塔のようなものになっていた。その頃になると強い風が度々塔を揺さぶるようになり、その様子を遠くから塔を眺めていた牛飼いは、強風が吹く度「Higher」と書かれたブロックの層を境に塔が僅かにずれ動くのに気づいていた。

 その日は最近では珍しく穏やかな晴れの日だった。そんな中、上層部の人間たちがスポンサーを連れ現場見学にやって来た。彼らは天高く聳え立つ塔に歓喜の声を上げ、内側から立ち上がってくる欲望の快感に興奮した。上層部の人間たちは往々にして天を目指すのが性なのだ。そうして彼らの更なる欲望が動き出した。その欲望は「To heaven」というプロジェクトを生み出した。そうして「To heaven」という新しいブロックによってプロジェクトは更なる推進を遂げる。

 「To heaven」のプロジェクトの名のもとに送られて来た新たなブロックは以前に増して複雑な形をしていた。さらにブロックの重さは紙切れのように軽く、中身が殆ど空っぽで「To heaven」の文字とその脇に細かな文字で詳細な指示がびっちり書き込まれていた。もはや作業員も現場監督もその指示の意味するところが分からず、それどころか指示の内容すら理解できない状況になっていた。何をどう繋ぎ合わせるのが正しいのか、ブロックの向きは順番はこれで大丈夫なのか。もはや熟練者の経験や五感に頼ることはできず、作業員も現場監督もブロックが正しく安全に積み上げられているという確信を得る術を失っていた。

 そんな彼らが確実に分かっていることは、ブロックを積み上げる先は天の雲にも届きそうなほど遥か彼方の天辺であり、設計図やブロックに細かく書き込まれた指示の中で正確に理解できたことは「To heaven、天へ」、ただそれだけだった。

 そんな状況を嘲笑うかのように塔を揺さぶる強い風が吹きはじめた。紙切れのように軽くなっていた「To heaven」のブロックは風にいいように揺さぶられ、ただなす術もなく、儚い葦のように頼りなく揺れるばかりだった。塔はやがて制御不能なほど大きくぐらつきだし、今にも崩れそうだった。そして誰もが懸念したように塔は無残に崩れ落ちた。ただ幸いに紙切れのように軽くなっていた「To heaven」と書かれたブロックの一部は、そのまま上へ上へと昇って行った。つまり、必ずしも彼らの望んだような形ではなかったが「To heaven」という彼らの野望は文字どおり達成された。

 やがて塔の周囲に吹き荒れていた強風は遠くに去り、遺跡の周りには再び穏やかな風が戻って来た。その後、古代の遺跡は以前よりやや面積を広げ高さも以前よりやや高くなったものの、以前と同じように草に覆われ、以前と同じようにところどころで石垣が顔を覗かせていた。ただ、以前と違って石垣に混じって「Higher」や「To heaven」の文字が見えていた。

 そこへ牛を引き連れて牛飼いが戻って来た。少しばかり形が変わってしまった遺跡を前に牛たちが大地の草を喰んでいる。天の陽は穏やかで風の妖精は無口で大地は平穏な静寂だった。草の匂いが呼吸深くに染み渡る大地で、牛飼いは懐かしい時間の中にいた。

 

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No.12 彼女はいつものように、村の食料品店で

No.12 彼女はいつものように、村の食料品店で

 

 彼女はいつものように、村の食料品店で一週間分の食料と地元新聞をひとつ買って店を出た。地元新聞では、ペットとして飼われていた迷子のカメレオンが無事見つかったというニュースが一面を飾っていた。泥まみれになったカメレオンを抱えた飼い主の写真が載っている。飼い主の顔は喜びと安堵の感情で酷く崩れていた。彼女は何故か笑えなかった。その下に、今日も世界が混迷に突き進む記事が載っている。

 今、世界は迷子であり、世界は不安な感情で溢れている。不安な感情と怒りの感情が世界の未来の見通しを悪くしている。だが、世界は今に限らず、ずっと迷子であり、ずっと不安を抱えた混沌とともにあったのかも知れない。そんな中、賢い人たちは不安や悲しみという苦痛と厄介を生み出す心をスパッと捨て去り、美しい装いでこの世界をクールに生きているかのように見える。だが、その美しい姿は、人としての美しい姿なのだろうか…。彼女はまだその答えを得ていない。

 

 

「あなたを漂白します」

 

 そのクリニックのビルは、商店街の袋路のどん詰まりにあった。 クリニックの左側に連なる商店街の始まりには、平家建ての小さな雑貨屋があり、カビ臭い、けばけばしい極彩色の品々で溢れている。右側の始まりには、やはり平家建てのペットショップがあり、動物の体臭や糞の匂いがそこら一体に充満している。その商店街には、矮小という言葉が似合いそうなほど小さな店がびっちりと、隙間なく建ち並び、雑多な色と臭いをふんだんに誇示していた。

 そんな満開色溢れ悪臭漂うカビ臭い商店街の中で、その真っ白で消毒臭いクリニックのビルは異様なほど、場違いな感がある。ビルの外壁はボーンチャイナの陶磁器のように艶やかで真っ白だった。真っ白でのっぺりしたビルの一階部分には、外壁と区別がつかないほど真っ白な入り口がある。入り口は縦に細長く切られ、大柄な男ひとりが身体を気持ち斜めにして、ようやく通り抜けられるような幅しかなかった。ビルの間口は二間と少々、高さは三階建て半ぐらいだろう。窓の無いのっぺりしたビルなので、何階建てなのか正確なところは分からない。ちょうど二階の窓の辺りの高さには、白地に白の浮き出し文字で、「クリニック」とだけ書かれたシンプルな看板が掛けられている。入り口には、真っ白な立て看板があり、そこには「あなたを漂白します」と白い文字が彫られていた。

 クリニックの内部は、外壁と同じようにボーンチャイナのような純白の壁で、床も天井も覆われている。窓は無いが、かなり明るい。まるで冷蔵庫の中のようにシンプルで冷ややかだ。一階の天井高はずいぶんと高い。この部屋には、色というものは何ひとつ見当たらない。せいぜいドクターが座る黒い皮張りの椅子ぐらいだ。 いや、黒と白は色ではない。色とは、例えば青い空、碧い海、蒼々とした緑、鮮やかに咲く花々の赤や紫や黄色、褐色の大地、黄金の太陽、深紅の唇、真っ赤な血…。黒と白は光の明暗でしかない。つまりこの部屋は、光の明暗しかない。シンプルだ。実にシンプルだ。そんなシンプルな空間の中では、音だけがよく響いた。その音も、湿っぽさや艶っぽさという余分なものをそぎ落としたかのように乾いた音をしていた。

 クリニックには、地下室がある。地下室も上の階と同じように、すべてが真っ白でかなり明るい。部屋全体が光っているようだ。地下室の中央には、人がひとり横になれるほどの大きさの白いカプセルが一つ、ポツリと置かれている。カプセルの蓋は、開かれている。カプセルから2メートルほど離れたところに、床に垂直に立てられた大きな鏡と、その脇に椅子が一つある。椅子の色は勿論白だ。鏡と向かい合うように、白いタオルを手に持った素足の男が居る。男の肌は、シャワーを浴びた直後のように濡れていた。男は手にしていた白いタオルで首や足を拭くと、タオルを椅子の背に掛け、鏡の中の自分を見つめた。

 その顔は、それなりの富と名声を勝ち得たような自信に満ち、それでいてどこか満たしがたい虚を宿した顔をしている。男の体はまったくといていいほどに贅肉のないスリムな体つきをしている。その白い男は彫像のように背筋を真っ直ぐに伸ばし、直立不動で立っている。白い男はまるで、この極めてシンプルな地下室のために特別に設えた大理石の彫像のようだった。艶のある白くて透明な肌は、造りもののように滑らかで、加齢による自然な澱のようなものが伺えない。この男は果たして小便を、大便をするのだろか。無味無臭なこの白い男は、生命の痕跡すら消してしまおうという魂胆なのか。それほどまでに男は真っさらに漂白されていた。その白さは見る者の理性を、不安にさせるほどだ。

 上の階では、一人の男がドクターの診察を受けていた。その男は落ち着きがなく、顔も体もいっ時もまともな形を保てずにいる。その顔はカメレオンのように如何なる顔にも変化しそうなほどの優柔さがあり、そのくせ何ものにもなりえないような優柔不断さがあった。カメレオン男の服装は驚くほどカラフルだった。さらにそれらはゴルティエのスーツにエルメスのタイ、カルティエの時計にグッチの靴、セリーヌのバックと、実に豪勢だ。その豪勢さゆえか、彼の動きは鎧を身にまとった時のようにぎこちない。男の柔軟性に富んだ優柔不断な顔は、混乱した幾つもの感情が幾重にも重なり、肌は黒いというより、どぶ川の水のように淀みが酷く、耐え難い臭いを放っている。しゃべり方は相手の感情にまとわりつくような、ねっとりしたしゃべり方だった。カメレオン男は今、ドクターの背中と向かい合う形で、白いスツールに腰掛けている。

 ドクターの真っ白な頭髪はボサボサに逆立ち、まるでキノコ雲のように上の方で大きく膨らんでいる。ドクターは、顕微鏡を覗き込みながら、爆発した白髪頭をぼりぼりと掻いている。ドクターの白衣の下からはくたびれた黒いズボンが覗いている。至る所で擦れとほころびが酷く、膝の辺りがかなり照っかている。足元にはつま先の方が上に向かって反り上がり、その曲がった辺りに深いシワが刻み込まれた黒い革靴が見える。だいぶ埃っぽい靴だ。白衣と黒のズボンに、黒の革靴。ドクターの服装には色こそないが、シンプルとは形容しがたい感がある。

 カメレオン男は、どす黒く淀んで、柔軟性に富んだ顔を幾度も歪ませながら、ねっとりした声でドクターに言った「ドクター、漂白できますか」。ドクターは、上半身だけを後ろによじり、鼻にずり落ちた縁なしの丸い眼鏡越しに、上目遣いでカメレオン男を見た。それから眼鏡をかけ直し、男を足の先から頭の天辺までじろりと舐め廻すように見て、血の気のない紫色の平っぺったい唇で嫌みっぽく薄笑いしながら言った「かなり、酷いですな」。ドクターの顔は、加齢の痕が痛々しそうに幾重にも積み重なり、潤いを失った肌が光を奪われ影を宿すように、暗くくすんでいた。その眼は鋭く、血の気のない平ぺったい唇は疑い深そうにへ字を描き、しゃべり方は、どことなく俗っぽい野心が現れていた。カメレオン男とは別の俗っぽさをにじませている。

 息が詰まりそうなほどすべてが純白な空間を背景に、何故かドクターのその俗っぽさは不思議な存在の軽さで輝いていた。

 

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No.11 田舎の夜道に靴音は響かなかった 

No.11 田舎の夜道に靴音は響かなかった 

 

 田舎の夜道に靴音は響かなかった。彼女は暗くなった外を眺めながらホットココアをすすっている。都会の夜では夜更まで靴音がよく響いていたものだ。特に急ぎ足でカッカッカッと尖った音を立てるヒールの音は遠くまでよく響き渡った。そんなヒールの音には大概不安や心配といった音が混じっている。

 

 

「カッ、カッ、カッ、静寂と闇が支配する街に」

 

 カッ、カッ、カッ、静寂と闇が支配する街に、石畳の道を小走りに急ぐ女の足音が響いた。それはまるで希望という儚い呪文にすがる祈りのように、あるいは、細く長い悲鳴を響かせるかのように、深夜の石畳の街をすり抜けていった。その足音のリズムは時計の針が時を刻むときのように狂いがない。慎重さと根気強さを持つ者の足音だ。女は小脇に太古に焼かれた壺を抱えていた。

 闇から無言の舌がスルスルと伸びて来て女の頬を舐める。女は頬を引き締め不快な舌を追い払う。道の曲がり角では闇の翼が女の行く手を阻む。女は壷を強く抱きしめ闇の翼を睨みつける。闇が狙っているのは女が抱えている壷だ。無言の闇は足音を忍ばせ、姿を隠し、どこからともなくやって来ては女に襲いかかる。だから女は決して気を抜かない。長い夜の闇に立ち向かう女の体力気力は限界が近づいている。それでも女はリズムを崩さず闇との戦いに必死に耐えている。

 その頃、ひとりの僧が漆黒の暗闇の中、黙々と坐していた。彼の背後には黙り通した幾年もの歳月が果てしなく連なっている。彼は耳を澄まし、闇の中に潜む無言のあらゆる音を追いかけている。地球の呼吸を担っていた樹々が切り倒される時、その内側で響き渡る叫び、地球の果てしない汚れの浄化を担わされた海が挙げる悲鳴、地球の冷静さを担っている強固で大いなる意志である極地の硬い氷の山、その氷山の氷の溶け落ちていく無念の嘆き、全てを切り刻む言葉が人々のつながりを容赦無く断ち切っていく音。世界の闇は暗さを増しているのを感じる。僧の耳は絶望が囁きはじめる気配を聴き取る。僧はそんな気配を黙ってやり過ごし、さらに耳を澄ましていると眉間の奥で微かな何か、重要な何かを聴き取った。僧はすべてのエネルギーを眉間に注ぎ、それを観た。それは、カラカラに乾いた砂漠の大地から、白い一頭の、若い蝶が飛び立った音だった。

 その時、石畳の街を小走りに急いでいた女が立ち止まり、小脇に抱えていた壺を胸の前で抱え直すと、壺に顔を近づけ耳を澄ませた。その壺には、”すべての贈り物”を意味する”パン・ドーラ”の名がついている。神々からの祝福が詰まっていると云われたその壺には、今、希望だけが残っている。

 

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No.10 陽だまりの中、無心の目を輝かせた男の子たちが 

No.10 陽だまりの中、無心の目を輝かせた男の子たちが 

 

 陽だまりの中、無心の目を輝かせた男の子たちがジャングルジムを競うように登っている。精神の自由という翼が眩しく輝いている。ジャングルジムを登った先には何もない。何もない天辺に向かって登っていく子どもたちの精神に躊躇いや虚しさという影は微塵もない。それどころかこの無意味な行為に夢中になり、全身全霊で何度も何度も挑戦する。少なくともこの瞬間、彼らの人生は完璧に彼らのものだ。

 そんな精神の輝きはどこから生まれるのだろうか。彼女はそんな問いを彼らに向かって投げかけてみた。そこから見えてきたのは、ジャングルジムという世界に没入し、ひたすら目の前の課題に取り組み続ける姿だった。目の前の課題に全身全霊で向き合う行為の中に精神の自由が生まれるのだろうか。精神の自由とはいったい何なのだろうか。彼女は膝の上に乗せていた本を閉じ、公園のベンチを後に歩き出した。

 

 

「神に愛された男」

 

 あるところに、大きな岩を山頂へ向かって転がし続ける男がいた。男は「神に愛された者」と呼ばれている。その男の大地を踏んばり続けた足は象の足ように太く、大きな岩を押し続けた腕は大蛇のように逞しかった。その男は決して筋肉たくましい大男でもなく、眼光鋭い切れ者でもなく、弁舌たくみな者でもなく、勇猛果敢な戦士でもなかった。そんな男が「神に愛された者」と呼ばれたのは、男の心はどんな困難にあっても決して壊れることがなかったからだ。

 

1.焼かれること

 そこは真っ赤に燃え盛る炎が火柱を上げる火口だった。火口からは大地の怒りとあらゆる欲望の業が絶え間なく吐き出され、火口の奥深くには真っ赤に燃えたぎるマグマが涸れることなく湧き続けている。煮えたぎった濃厚なスープのようなマグマからは、キノコ雲のような泡がぶくぶくと沸き起こり、火口の中で暴れ回っている。マグマは底なしの欲望に満ち、その強力な消化能力であらゆる欲望を次から次へと飲み込み、その煮えたぎる大釜の中にすべてを溶かし込みむ。

 そこに一人の男が煮えたぎる火口の淵で、熱さに堪えながら足を組み、眼を瞑り、黙して静かに座っている。男はもうすでに、かれこれ七日も座り続けている。今日で八日目だ。男は灼熱の太陽とマグマに焦され、焼けつく熱さに苛まされ続けた。男の肉体はすでに限界に近い。だが男はあと一日座り続けなければならない。神は男に、三の三倍の日数だけ座り続けるように命じられたからだ。

 まる七日間と半日太陽とマグマに焼かれた男の皮膚の赤みは尚も刻々とその深みを増していく。内臓にまで達したその熱は男の体中を駆け巡り、すでに心の臓にまで達しようとしている。それでも男の心の臓は冷静さを保ち、なんとか熱さに持ち堪えている。夜になると怒り荒れ狂うように轟くイナズマが男の耳と心臓を縮み上がらせたが、灼熱の太陽が姿を消して熱さの和らいだ夜の空気は、男の肉体的な苦悩を幾分和らげた。

 翌日になるとまた男は灼熱の太陽とマグマの熱に焼かれた。男の心の臓は最後の力を振絞り熱さに堪えている。だがそれもすでに限界に達している。もはや男の眼は締まりが無くなり、その視界はぼやけはじめ、焦点が定まらず意識は宙に彷徨い出した。男は瞬きをしながら焦点を取り戻そうとするがそれは無駄な努力に近い。ついにはその定まらない焦点を追いかけるかのように白昼夢が浮かび上がってきた。白昼夢に現れた化け物たちは、男を容赦なく襲い続け、男を縮み上がらせる。

 大口を開けた頭を八つ持つ巨人は互いの頭を罵り合い食らい合っている。恐怖で眼球が飛び出した九つの眼を持つ巨大なモグラは耳をつんざく悲鳴をあげながら体を大きく震わせ、その震動は地響きのように大地を揺らした。百の足と百八つの手を持つ巨大なムカデはあらゆるものを掴もうと四方八方に力の限りを尽くして手足を延ばし、荒々しい息で喘いでいる。そのからだは引きちぎられんばかりになっている。男はその情景を見据えたまま動かない。欲望の化け物たちの慟哭は激しさを増していく。

 男は自分はまだ正気を保っているのか、既に意識の限界を越えてしまっているのか、それすら分からなくなっていた。男が最後の意思の力を振絞り、祈るように肚にぎゅっと力を入れると、化け物たちは世にも恐ろしい断末魔をの声をあげ、男の耳をつんざいた。男の鼓膜は苦痛のあまり、全ての音を閉め出した。

 

2.凍えること

 次の瞬間、男は闇と静寂の中にいた。辺りは冷んやりとした空気に満ちている。一筋の光も射さないその暗闇は彼の眼からすべての探索機能を奪った。男が手探りで辺りを探ってみるとそこは、冷たく湿った土に囲まれた小さな空間だった。その冷たく湿った土は男の焼けただれた皮膚と煮えたぎった血を冷まし、闇の静寂は欲望の絶叫に引き裂かれた耳を癒した。やがて男の体に冷んやりした静寂が訪れ、静寂は男の脳の中にも広がってき、男を眠りに誘った。男はまどろみの中で土の冷たさだけを感じていた。

 夢の中で男の眼は徐々に視力を回復していき、やがて、冷たい土の中で凍える小さな植物の芽を見つけた。その傍では小さな虫が仮死状態で横たわっている。男は植物の芽をそっと掘り出すと、痩せ細った弱々しい根を両手でそっと包み込んだ。すると灰色の植物の芽は僅かに青みをさしたように思えた。男はその植物をそっと懐にしまい、次いで仮死状態の小さな虫を優しく拾い上げ、同じように両手で暖めてから植物と一緒に懐にしまった。男の体温はかなり下がってはいたものの、凍える小さな植物や虫たちよりはずっと暖かく、男の懐は凍える小さな植物や虫たちを暖めるには十分だった。男は懐に植物と虫を抱いたまま、眠りの中の眠りに落ちていった。

 やがてその眠りの中で男は微かな音を聞いた。その音は虫の音のような小ささで、心臓が打ち鳴らす鼓動のように一定のリズムを刻んでいる。そのリズムはやがて囁き声に変わっていった。囁き声が何と言っているのかは分からなかったが、とても心が安らぐ囁きだった。その囁き声に耳を傾けるうち、男は眠りから覚めていった。眠りから覚めた男は以前と同じ冷たい闇の中にいた。男は懐の中を探ってみたが、そこには何もなかった。

 男は冷たい壁を押してみるが壁はびくともしない。仕方なく男は再び岩のように黙って座っていたが、やがて息苦しさと寒さに堪えかね土壁を掘りはじめた。思いのほか土壁は硬かく、掘っても掘っても思うように掘り進まなかった。天井の土は硬い壁と反して意外にも脆く崩れ落ちた。掘れば掘るほど天井の土が崩れ落ち男はさらに土に埋もれるのだった。そこで男は硬い壁と脆い天井の間を、土に埋もれながらも粘り強く掘り進めた。男は黙々と掘る。そんな男の腕は次第に逞しくなった。暗闇に目が馴れたのか、男は周囲が少し見えるようになったと感じた。しかし状況が良くなる気配は一向に見えてこない。男の精神はこの最悪な状況に必死で堪えている。この過酷な状況で男を支えているものは、終わりがないと思える悪夢にも必ず終わりがあるという信念だった。

 そしてついに、壁を掘り進める男の指先に、何か繊細な柔らかなものが当たった。それは植物の根だった。根の周りを掘り進めると、根の先に、必死に生きようとしている小さな植物の新芽が現れた。それは眠りの中で懐におさめたあの植物だろうかと思った。こんな硬く冷たい土の中でも小さな命は必死に生き延びている。その姿に感動した。すると今度は、硬い壁の中から一匹の小さな虫が這い出してきた。その命の力強さにも男は感動し、泥だらけの両手で顔を覆い、神の御技を讃えた。虫は辺りを脈絡もなく飛び回った後、壁に止まったまま動かなくなった。その壁をよく見ると、そこに針ほどの小さな光の穴が見えた。虫はしばらくそこに留まったままじっとしていた。男は息を凝らし虫と小さな光の穴を希望を持って見つめた。虫はやがて何かを決心したかのようにその小さ翅で小さな光の穴の中に飛び込んだ。次の瞬間男の体は突然軽くなった。

 

3.流されること

 男は浮いていた。どうやら川に浮かんでいるようだった。川の水は冷たくはなかった。辺りを見回すとそ川の両岸には青々とした緑が茂っている。その川の幅は男の両腕を伸ばした長さの十倍はある。川の流れは比較的緩やかで、男はしばらくその川にぷっかり浮かぶような格好で空を眺めていた。青い色をした空では、雲たちが男と同じようにのんびりと漂っていた。

 男はやがて目をつむりゆったりした時間の中に沈んでいった。ゆったりした時間の中で男はこれまで縁のあった人々の顔を思い浮かべていた。子供の頃から大人になるまで、男は様々な人に愛され守られ、ときに騙され、迫害されてきた。だが男はそんな全ての人の顔が同じように愛おしく思えるのだった。すると男の眼から涙が流れた。男が眼を開けると目の前に広がる空は灰色に変わっていた。男の顔にぽつりと雨が落ちてきた。雨はじきに激しくなり、男を激しく打ちつけた。

 男は川岸に上がろうと泳ぎはじめたが、川かさはあっというまに増え、川の流れは速まり、男は流された。男はときに岩にうち付けられ、ときに渦に巻き込まれながら流されていった。そうこうしながらも男は徐々に川岸へと近づいていった。ようやく川岸に手が届きそうなところまで来ると必死で茂みに手を伸ばし草を掴んだ。が、掴んだ草は呆気無く男と一緒に流されてしまった。男はそれでも手を延ばし続けた。男は草を何度も何度も掴んでみるのだが、掴まれた草たちはすぐさま悲鳴を上げ、川の流れの中に切れ切れになって消えていった。

 男の眼は雨と疲労でかすみはじめていた。やがてかすんだ目の先に、川岸の草たちに混じって一本の手がかざされているのが見えた。男はその手を必死で求め掴んだ。が、次の瞬間、その手は幻のように消え去ってしまった。だがしばらくすると幻の手は次から次へと現れ、哀れな男に向かって手を差し延べていた。男は幻の手に騙され続け、流され続けた。それでも幻の手は次から次へと現れ、男はためらうことなく騙され続けた。

 しかし、やがて男の中にもためらいが生まれはじめ、男の中に重さと疲れを生みはじめた。男の手はだんだんと沈みはじめ、幻の手を掴む回数も減っていった。そんな状況の中でひとつの歪でゴッツイ手が現れた。そのゴッツイ手は節々が太く、皮膚はカサつき、その色は泥にまみれたような土色だった。男はその歪なゴッツイ手に救いの声を聴いた。男は最後の望みを託し、最後の信じる力を振絞りそのゴッツイ手に掴まった。その手を握った瞬間、そのゴッツイ手は太くて丈夫な木の根に変わっていた。男はなんとかその木の根に掴まり岸へと上がることが出来た。

 

4.大きな岩

 ようやく岸に上がった男の頬はげっそりと痩け、濡れて縮れた髪には切れ切れになった草が絡み付き、衣は引き裂かれたようにボロボロだった。男は足を引きずるようにしてそれほど深くない森を抜け、日の暮れる前に町に辿り着いた。男は町の片隅に崩れるようにしてしゃがみ込んだ。そんな男の前を何人かの町人たちが通り過ぎていく。皆、仕立ての良さそうな服を着、丁寧に磨かれた靴を履いている。だが、今にも倒れそうな男を気にとめる者はいなかった。

 男は疲れと空腹でいよいよ地面に沈み込むように倒れ、虚ろな眼を天に向けた。天は徐々に暗くなり、闇にすっかり覆われると、男の眼は世界の全てを見失った。眼を開けておく意味を失った世界では聴覚が鋭くなり、男は多くの声を聴き取っていた。風の音、草木が呼吸する音、大地の鼓動、そして人々の声にならない声を。その声は、熱い思いを語るもの、心を鋭くえぐられ苦痛に喘ぐもの、重さに押し潰され呻くもの、散り散りに飛ばされ泣き叫ぶもので溢れていた。

 そんな声の中に、ひときわ深いところからやってっくる力強い声があった。その声はひたすら沈黙する声だった。男はその沈黙する声が語りだすのを待ったがやはり沈黙する声は沈黙を守っていた。男も沈黙を守り耳を澄まし、微動だにしない。そんな男の体は硬直し、徐々に感覚が失われていった。その時、感覚の鈍った頬に何か生温いものが触れた。その生温いものは彼の頬を優しく愛撫している。やがてその愛撫は頬にとどまらず全身に及んだ。その優しさに満ちた愛撫の中で体の硬直が弛み、男は深い眠りに落ちていった。

 翌朝眼を覚ますと男の傍らには寄り添うように野犬が休んでいた。野犬は男の足下に平伏すように二頭、背後を警護するように一頭、頭を守るように一頭、そして正面にやや離れて控えるように一頭いた。男は起き上がり、立ち上がった。立ち上がった男の体からは昨夜までの疲れが跡形もなく消えていた。男は当てもなくゆっくりと歩きはじめた。するとすぐに一頭の野犬がやってきて、道案内をするかのように男の前を歩きはじめた。男が野犬に従って歩いていくと、町外れの大きな岩のところに行き当たった。

 岩は男が両手で抱えるのがやっとなほどの大きさがあった。その岩の表面は、まだ人々が見えないものを信じていた頃の古い言葉がびっちりと刻まれ、古の荘厳な佇まいを持っていた。その岩は夕べの「沈黙する声」の主だった。男はその岩をしばらく眺めていたが、男の眼が岩の向こうにそびえる山をとらえたその時、何をすべきかを理解した。

 町では大岩を転がす男の話題で持ち切りだった。だが、何故男が岩を転がすのか。人々には理解できなかった。男は来る日も来る日も山頂へ向かって大岩を転がしている。その岩はあまりに大きく重く、彼は度々やりそこなって岩もろとも山の麓まで転げ落ちるのだった。大岩はときに男の体を押し倒し、ときに跳ね飛ばし、ときに押し潰しながら転り落ちていった。男はそれでも大岩を転がし続けた。男には分かっていた。この作業は永遠に完成されないだろうということを。それでも命ある限りこの岩を転がし続けばならないことも理解していた。来る日も来る日も山頂へ向かって大岩を転がし続けた男の足は次第に象のように太くなり、腕は大蛇のように逞しさを増していた。だがその顔は輝きと柔和さに満ちていた。

 ある日、男は風の中に神の声を聴いた。その声は沈黙する岩のように重々しく、そして凛として男の耳によく響いた。「愛する者よ、そして誰よりも、私を愛した者よ、もう休むがよい」。男は神の言葉に満たされ、大地に横たわり天を仰いだ。天は穏やかに晴れ、その雲一つなく澄み切った空には無限が広がっていた。

 

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