小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

ソフィーの物語 no.2

 砂糖のような甘さを含んだ白いペンキで塗られた店からバターと砂糖の焦げるような香ばしい匂いが漂ってきた。ソフィーは歩きながらその幸せなそれでいて罪深そうな匂いを少しだけ楽しむと、そのまま店を通り過ぎた。白いペンキの店から少し行くと大きな扉が重々しい高級リネンの店が見えてきた。店先にホームレスがしゃがみ込んでいる。そのホームレスを覆い隠すように大きな扉が重々しく開き、中から身なりのいい一人の婦人が店から出てきた。婦人はホームレスに気づくと、ホームレスに嫌悪と蔑みの一撃を与えた。その時、婦人の胸と顎の辺りがほんのわずかだが上へと突き出された。ソフィーは婦人の中の何がしかのエネルギーの高まったのを見逃さなかった。婦人がホームレスに与えた嫌悪と蔑みの一瞥の対価として、何がしかを受け取ったのだと理解した。婦人は派手なピンク色の袋を手にその場を足早に遠ざかって行った。

 ソフィーは高級な店が建ち並ぶ通りを抜け、その先の緩やかな坂を下って行った。坂を下り切ると、向こうから4才ぐらいの元気のいい男の子が駆けてきた。その後ろを母親らしき女がスカートのほつれを気にしながら歩いている。慌てて家を出てきたのかブラウスの襟元が内側に折り曲がっている。男の子はソフィーの近くまでやってくると屈託のない笑顔を見せ、さらに近づくと背中を反るように伸ばしてソフィーを見上げた。ソフィーの心の中に甘酸っぱい透明な風が吹き抜けた。男の子はもう一度嬉しそうに笑うとくるりと身体の向きを変え、母の元に戻っていった。

 母のところまであと一歩といったところで男の子は足元のバランスを崩し、母のスカートの端にしがみつくようにして転んだ。

 「何やっているのよ」母親は子どもを威嚇するような荒々しい声で怒鳴った。それは明らかに反射的な行動だった。男の子の心に暗く重い雲が広がっていく。その暗い雲は胸の辺りから喉を通り頬へと昇っていき、口から雷を轟かせ、両目から大粒の雨を降らせた。

 「うるさい、泣くんじゃありません、自分で転んだんでしょ」母親の声は一段と荒々しくなり、「ほら、立ちなさい」と言うと男の子の手を荒々しく掴んだ。男の子は慌てて体勢を立て直そうとして全身でもがいた弾みで母の手から滑り落ち再び地面に胸から落ちた。男の子の口から母の理不尽な対応に対する抗議が大きな泣き声となって飛び出した。

 ソフィーはその時、男の子の直ぐ脇にいた。男の子の顔を見ると、涙と転んだ時の泥とで可哀想な顔になっていた。彼の人間としての尊厳は彼の顔と同じくらい可哀想な状態にあるように思われた。ソフィーの心臓のある辺りが痛みを感じた。彼は将来、あの暗い雲に支配される人生になるのだろうか、それとも、あの甘酸っぱい透明な風を守れるのだろうか。母親はまだ一度も子どもの怪我を心配する声をかけていない。

 ソフィーは男の子の前で屈み、男の子の両脇を抱え身体を起こすと泥をはらい顔をなでた。男の子は抗議の泣き声を止め、空白な顔でソフィーを見つめた。母親はソフィーの行為に所有権の侵害を申し立てるかのように、荒々しく両手で子どもを掴み、自分の腹に引き寄せ、ソフィーに威嚇の一瞥を投げつけた。ソフィーは母親の一瞥を無視し、無言で立ち去った。

 何やっているのよ、と言われても子どもにしてみれば転んだだけ。何で転ぶのよ、と言われても幼い子が躓いて転ぶことに理由などあろう筈もない。

 「ほら、行くわよ、もう、ちゃんとしなさい」母親の苛立つ声が再開し、子どもが応戦するかのようにまた大きな声で泣き始めた。「泣くんじゃないわよ、うるさいわね、やめなさい」子どもの泣き声が一段と大きくなり、母親と子どもの不毛な闘いが再開された。

 人はなぜ四六時中無意味な闘いに明け暮れているのだろうか。ソフィーは振り返らずに歩き続けた。人はなぜ…、ソフィーいつも問いを追いかけている。それが彼女の問題だった。

 

次へ「ソフィーの物語 no.3」

 

「ジェンとケイトと、ソフィーとマグノリアの物語」へ戻る

HOME「小さな物語」へ戻る