小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

ソフィーの物語 no.1

 今日もまた、曖昧な夢の中で目覚めた。このところもやもやした思いだけが残る夢が続いている。ソフィーはしばらく天井を眺めていたが、意を決し、ベットからゆっくりと起き上がった。カーテンを開けると、外はまだ夜が明け切らない薄暗さを残している。寝起きのすっきりしない頭でコーヒーを淹れにキッチンへ行く。テラスに面した窓の外で、黒い子犬がm&mチョコレートのような黒くて艶のある丸い鼻を窓ガラスに押しつけている。その眼は、チョコレート色の鼻と同じように黒くて真丸。真っ直ぐな視線でソフィーを見つめている。その子犬は昨日の昼にこのテラスに迷い込んできた。首輪はなく、夕方には見えなくなった。

 子犬はソフィーから目を離さない。「また来たのね、お腹空いてるの?」窓越しに子犬に声をかけた。遊びに来たのだろうか、迷子だろうか。生後何ヶ月ぐらいだろうか、まだ足元にどことなくおぼつかない感じが残っている。ソフィーは子犬のために棚から白いカフェオレボールを取り出した。窓からの日差しが明るさを増しはじめ、鳥のさえずりが静かにはじまった。息をこらした夜の重さから解放され、有無をいわさない現実の重さが目を覚ます前の、ほんのわずかな狭間の時間。

 その時突然玄関の呼び鈴が鳴った。ソフィーの心臓は飛び出しそうなほど驚いた。「こんな朝早く、いったい誰が」ソフィーは慌ててガウンを羽織って玄関の扉を開けた。そこにはガウン姿のマイケルが頭を掻きながら緊張した面持ちで立っていた。マイケルは、最近隣に引っ越してきた人で、リモートワークになったのを機にここへ越して来たのだという。

 「こんな朝早くから申し訳ない、実は今朝起き抜けにモーレツに腹が鳴って、いや、モーレツに腹が減って目が覚めてが正しいかな」と言うと緊張の面持ちが少し緩んだ。「とにかくキッチンの棚を覗いてみたら、どうやらパンを切らしているらしく、朝食のパンが一切れもないんです。その時、キッチンの窓越しに、お宅の窓に人影を見たもので、お隣さんがもう起きていらっしゃるなら、厚かましいとは思ったものの、どうにもこうにも腹が減って、お宅に余分なパンがあれば分けていただけないものかと」相変わらず頭を掻きながらしゃべるマイケルは、恐縮しながらもどこか無邪気だった。その無邪気さはマイケルの恰幅の良い体型、特に愛嬌のあるお腹周りと相まって憎めない空気を醸し出していた。

 そんなマイケルにソフィーは快くバケットの3分の2を分けてあげた。ここは町から外れた崖の中腹にあり、辺りに早朝からやっている店は皆無だ。ソフィーがパンを分けてあげなければ彼はまともな朝食を食べそびれてしまっただろう。マイケルは喜びと感謝を充分に表明して隣の家へ帰って行った。

 ソフィーにとってマイケルという存在は近くて遠い存在だと感じている。ソフィーが持ち得なかった世界に彼は居る。マイケルはどこか子どものような無邪気さがあり、この世に恐いものなど何もないといった泰然とした大らかさがある。それでいてその恰幅の良さからだろうかユーモアに溢れた世界を運んでくる。そんなマイケルを前にするとソフィーは決まって無償の笑みを差し出したくなるのだ。

 ソフィーはそんなマイケルを見送ると、キッチンに戻りテラスのガラス戸を開け子犬を中に入れてやった。子犬はまだぎこちない足取りでソフィーの足元に寄って来て、小さな鼻面を押しつけた。ソフィーはそんな子犬を抱き抱えると、ミネラルウォーターをカフェオレボールに注ぎ電子レンジで人肌に温めながら「少しだけね、お腹を壊しちゃいけないから」と話しかけた。温まったミネラルウォーターにビスケットを砕いて入れふやかしてからテーブルの真ん中に置いた。子犬をそっとボールの前に置くと、すごい勢いでボールの中身を平らげた。子犬はさらにボールの中をきれいに舐め回すと、口の周りを食べかすだらけにして満足そうな顔でソフィーを見上げた。その顔は、まるでさっきのマイケルのようにこの世に恐いものなど何もないといったような顔だ。その時ソフィーはこの子犬を飼う決心をし、ジルと名づけた。

 

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