小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

No.6 散歩の途中で見つけたその店は

No.6 散歩の途中で見つけたその店は

 

 散歩の途中で見つけたその店は、一坪にも満たない小さな店だった。そこで売られていたのは中身がたっぷり詰まったサンドイッチだ。それを作っているのは愛想が良く、少しふくよかなお腹をした初老の女将だった。女将はこの店を母から受け継いだと言った。だとしたら大叔母もここのサンドイッチを食べていたかも知れない。そう思うと彼女は、これは食べないわけにはいかないと思った。

 サンドイッチを買って帰ると、彼女は早々にテラスのテーブルにサンドイッチとお茶を準備した。空は快晴、風は穏やか、絶好のランチ日和だ。早る心を押さえながらサンドイッチの包み紙を開けると、現れたのは厚さ8センチもありそうなサンドイッチだった。パンに挟まれた具材は幾つもの層をつくり、実に彩りが豊かだった。彼女は大きな口を開け、ボリュームたっぷりな分厚いサンドイッチをガブリとかじった。

 口の中で甘さ、辛さ、酸味、苦味、旨味が、一気に広がっていった。多彩で複雑な味が、幸福感を生み出す脳を刺激する。彼女は複雑な味の正体を確かめようと、今度は具材の一つひとつを丁寧に味わった。どれもがしっかりした味を主張し、個性豊かな顔をしている。「うんうん、なるど」といいながら一つひとつの具材を分析する。っと何だか賢くなったような気になるから不思議だ。彼女はそんな自分に可笑しくなった。

 彼女はそこで再びサンドイッチを丸ごとガブリとかじり、モグモグと大きく口を動かしながら味わう。すると今度は世界を丸ごと味わうような喜びを感じて、また可笑しくなった。味わう、これこそ人間であることの醍醐味だ。彼女はそう思うとまた可笑しくなった。

 

 

「分類する男」

 

 その男はあらゆるものを分類している。その分類に何の意味があるのかと思うようなものまで執拗に分類する。だが男は真剣だ。それがその男の仕事だからだ。男の仕事は全ての物事に右か左かの分類をすることだ。それは思いのほかなかなか困難な作業である。

 

 男は今朝、いつもと変わりなく可もなく不可もなく目覚め、いつもと同じように妻の煎れた熱い目覚めのコーヒーを飲み、妻に熱い目覚めのキスを贈った。男はこのような朝の儀式を、もうかれこれ五千回ほど行なっている。妻はカーテンを開けながら弾むような声で言った。「あなた今日も好い天気よ」妻はいつも明るい。そして何ごとも意に返さないような大らかさがあった。男はそんな妻が好きであり、妻の大らかさの度合いは年を重ねる毎に豊かになっていく。その豊かさに合わせるように年々少しづつ育っていく妻のお腹を見るのも好きだった。男はいつもと同じように、そんな妻の用意した栄養たっぷりの朝食をとり、ズッシリとした重みのあるサンドイッチの包みを持って出勤した。男はその妻の愛情とボリュームたっぷりな食事を長年続けているにもかかわらず、何故か太る気配は一向になかった。多分体質なのだろう。

 男の勤める会社は彼の家から歩いて15分ほどのところにある。その道はやや起伏はあるものの単純な一本道だった。その道の両端には雑草が生い茂り、その雑草の中には色とりどりの小花が可憐に咲き誇っていた。その雑草の向こう側には青々とした畑が広がっている。男はそののどかな畑のなかを抜け、いつものように会社に着いた。男はいつものようにタイムカードを押した。タイムカードの時間は8時49分。そこまでは何ごともいつもと変わりなかった。だが男は今日は、いつもの一階のオフィスへは向かわず、二階のオフィスに向かった。 実は男は先日、辞令を受けていた。上司は男にこう言った。「君の誠実で正確な仕事ぶりをかって、是非君にまかせたい仕事がある。それは世界に関わる重要なプロジェクトだ。よければ、早速だが今度の金曜日からその仕事に取りかかってもらいたいのだが」

 男は上司の言葉に一瞬耳を疑った。男はどちらかというと、大らかな妻と違って何ごとにも心配性で、仕事はコツコツと積み上げるタイプで、いわゆる小さくまとまった地味な存在だった。そんな男にとって、こんな名誉な仕事を与えられることなど、今まで一度もなかった。にわかに男の中に芽生えた野心がチャンスを求め鼓動が高なった。男は落ち着こうと大きく息を吸い込むと、今度は未知への不安からか、心臓は急速に強張り、安全を求めて縮こまろうとする収縮感に襲われた。男の心は膨らむ野心と縮こまる不安との間で揺らいでいた。結局、男は戸惑いながらもノーと言えない気の弱さからその仕事を引き受けた。それでもその日は男にとって少しばかり晴れがましい気分を味わっていた。

 男は階段を上り二階の長い廊下を真っ直ぐに歩き、突き当たりの01号室のドアの前で立ち止まり、そこで少し大きめの深呼吸をすると力強くそして丁寧にドアを開けた。ドアは素直に開き男を招き入れた。だがそこにはごくありふれた一組の事務机と椅子、部屋の真ん中には何故か大柄なサンタクロースでも抱えきれないほどの大きな麻袋がデンと置かれていた。麻袋には「世界」という文字が焼き印されている。その麻袋の左右に大きなワゴンがあり、それぞれに「右」と「左」のプレートが付いていた。部屋は静寂で、人の気配はなかった。部屋は実に殺風景で、壁と天井は薄曇りの空のような寂し気でどんよりした灰色に塗られ、正面の壁には同じような灰色の味気ないサッシの四角い窓が一つあった。その窓の脇に、これまた灰色のスチール棚が一つあり、そこにはグレーなのかベージュなのか判別のつかないような色のプラスチック製のカゴやボックスが幾つも積み重なっていた。

 男はやや拍子抜けした気分でその部屋をしばらく眺めていた。期待を膨らませて扉を開けた分、男はその殺風景さにやや気落ちした。とはいうものの持ち前の真面目さから直ぐに気を取り直し机に向かった。男はサンドイッチの包みを机の端に置くと椅子に腰掛け背筋を伸ばした。机の上には仕事の指示が書かれた一枚の紙が置かれていた。

「ひとつ、袋の中のものをそれぞれの指示に従って右と左に分類すること。ひとつ、分類の仕事は今日中に完璧に終わらせること。以上」

 仕事の指示は実に単純明快だった。男はまたもや拍子抜けした気分で机から顔を上げると椅子の背もたれに身体を預け灰色の天井を見つめた。「それだけか」男はそう言うと意を決したように勢いよく椅子から立ち上がると、上着を脱いでそれを椅子の背もたれに掛け、両肘を二三回軽く後ろに引き、ふっぅと息を吐き、「さっさと片付けて、今夜は旨いワインでも開けるか」と声に出して言った。

 男は「世界」という文字が焼き印された麻袋に手をかけた。麻袋の大きさは男の両腕を広げても抱え込むことが出来ないほどの大きさだった。そのとき、男の頭の中に、これは妻のお腹の何倍あるのだろうかといった思いが一瞬頭をよぎり、思わず苦笑した。男が麻袋の口を開けるとその中には小さな麻袋がいっぱい詰まっていた。その中の一つを取出すと、その袋には同じように「世界」という文字が焼き印されていて、紐で縛られた口には『角のあるものは右に、角のないものは左に分類すること』と書かれたカードが付いていた。袋を開けて中を覗いてみると、そこには木でできた玩具のようなブロックが入っていた。男は棚からカゴを二つ持ってきて、机の左右の端に一つづつ置いた。まず袋から取出したのは四方が5cmほどの正立方体だった。男は迷わず右のカゴに入れた。次に取出したのは上半分が卵形で下半分が三角錐だった。男はそれも迷わず右のカゴへ入れた。

 続いて現れたのはアルプの彫刻のような全体に丸みを帯びたブロックだった。男はそれをカドのないものの左のカゴに入れた。さらに続けて取出すと、それは球体で、ところどころ指で押したような凹みがあった。その凹みを注意深く見てみると、凹みの一つに棒の角で押したようなものがあった。男は一瞬そこで手を止め、口元をゆがめてかすかに微笑むと、内側に凹んだ角だと言って、凹みを持つ球体を迷わず立方体と同じ右のカゴに入れた。その分類は順調に進み、呆気無く終了した。男は角のあるブロックの詰まったカゴを右のワゴンに、角のないブロックの詰まったカゴを左のワゴンにそれぞれ納めると、次の麻袋を取出した。

 その麻袋の口には『継ぎ目のあるものは右に、継ぎ目のないものは左に分類すること』と書かれたカードが付いていた。その袋の表には、やはり「世界」という文字が焼き印されていた。男がその袋を覗くと、今度はさまざまな形の縫いぐるみや人形が入っていた。男は一つ一つ慎重に縫い目や継ぎ目を探した。複雑な形のものになるとそれこそ舐めるように眺めまわし、継ぎ目を確認しながらカゴに入れていった。

 その分類もじき終わると、また右と左のワゴンにそれぞれを納め、次の麻袋を取出した。今度の麻袋にのカードには『哺乳類は右に、鳥類は左に分類すること』と書かれていた。そこにはネズミやスズメなどの動物のフイギュアが入っていた。男はネズミを右のカゴに、スズメを左のカゴに入れた。続いて取出したのがの虎だった。男は迷わず右のカゴに入れた。その次に取出したのはの駝鳥だった。男は一瞬苦笑して言った「飛べないオマエも一応鳥なんだろう」男はのフィギュアの駝鳥の長い首を掴んで左のカゴに入れた。その分類も順調に進み、最後の一つとなったものを取出すと、それはコウモリだった。男は大きく苦笑して言った「飛ぶ哺乳類」男はコウモリの足を摘まみ上げると目の高さでまじまじ観察しながらさらに言った「本当にオマエは哺乳類か?鳥に分類されてもよかったのになぁ」男は鳥にも思えるその哺乳類を右のカゴに入れた。そうして分類は順調に進んだ。

 男が腕時計を見るともう昼時になっていた。男は分類を終えたカゴをそれぞれ右と左のワゴンに納めると、机の上を払ってサンドイッチの包みに手をかけた。男は手拭きで念入りに手を拭くと、サンドイッチの包みを破り、具のたっぷり詰まったサンドイッチを手に取った。そのサンドイッチを一口口に入れると、口の中に爽やかな畑の香りとともに、シャキシャキしたレタスの歯ごたえとジューなトマトの酸味が広がった。続いてそのみずみずしさに塩味の効いたカリカリのベーコンと、ほどよい柔らかさのオムレツが絡み、さらに、ホクホクしたポテトサラダと甘酸っぱい人参とレーズンのサラダ、そしてカレー風味のグリルチキンが口の中で踊った。そのごったまぜの豊かさに男の口元はほころび、至福感で全身が緩んでいった。

 男はサンドイッチのランチを終えると、早々に仕事の続きに取りかかった。まず取出した麻袋には『使えるモノは右に、使えないモノは左に分類すること』と書かれたカードが付いていた。袋の中から出てきたものは大量の使いかけのペンや鉛筆だった。男は一つ一つ書けるか書けないか、確かめながら右と左のカゴに分類していった。だが、その判別は思いのほか戸惑うものだった。使えないとも言えるが、頑張ればまだ使えるとも言える、そんなふうに悩むものが思いの外多かった。男は一度右のカゴへ入れかけたものを左に入れ替えたりと作業に手間どった。中には三回も五回も往ったり来たりするものもあった。ようやくペンと鉛筆の分類が終わると、今度は『暖色は右に、寒色は左に分類すること』と書かれたカードだった。

 袋の中には大きなカラーカードが入っていた。男はそのカードを赤色系統は右に、青色系統は左にと手早く分類していった。だが、赤色系統と青色系統のぶつかる紫のカードが出現したとき男の手はピタリと止まってしまった。男はその紫のカードを手にしたまま暫くじっと眺めていたがやがて決心したように席を立つと灰色のスティール棚から灰色のボックスを取出してきて机の正面の端に置いた。 そして、「どちらでもないもの」と言って、その紫色のカードをそのボックスに入れた。 男は暖色カードの入ったカゴと、使えるものに分類したペンのカゴを右のワゴンに、寒色カードの入ったカゴと、使えないものに分類したペンと鉛筆のカゴを左のワゴンに納めた。が、何かしっくりこない思いが残った。しかし、男にはそんな思いに構っている暇は無さそうである。大きな袋の中にはまだまだ小さな袋がいっぱい入っている。男はそのしっくりこない思いを残しながら次に取りかかった。

 次に取出したその袋のカードには『女は右に、男は左に分類すること』と書かれていた。袋の中を覗くと幾つかの写真の束が入っていた。それは画面いっぱいにクローズアップされた顔写真だった。その顔写真はどれも素顔で澄ました顔をしていた。男は骨格のガッチリした堅い輪郭を持つ男の顔と、線が細く柔らかみを持つ女の顔を手早く分類していった。しかし、その互いの特徴は思いのほかかなりのところで混じり合い、曖昧になり、絡み合っている。男はその曖昧な顔を『どちらでもないもの』のボックスに入れていった。 顔写真の束は、民族ごとに束ねられていた。馴染みのない民族の顔では、さらに男女の分類は困難になっていき、『どちらでもないもの』のボックスの中はさらに増えていった。続いて取出した袋のカードには『正しい行いは右に、正しくない行いは左に分類すること』と書かれていた。中に入っていたのは短な文章の書かれたカードだった。

 男はそのカードを取出し、机の上に置いたまましばらく眺めていた。「これは案外厄介なことになりそうだ」男はそう呟くとカードから目を離し正面を見た。正面には四角いサッシの窓がある。窓越しに見えた空には、もうすでに夕方の光が混じりはじめていた。男は意を決したようにカードの分類に取りかかった。『カレーを手で食べること』「これは、カレーの国インドでは正式だ」そう言うと男は右の正しい行いのカゴへ入れた。つづいて『サンドイッチをナイフとフォークで食べること』男は思った「サンドイッチはむろん手掴かみで食べるためにある」男は左の正しくない行いのカゴへ手を延ばした。だが、男は気取ったレストランでは貴婦人たちがサンドイッチを上品にナイフとフォークで食べている姿を思い出した。男の手は降ろし場所を決めかねたまま宙に浮いてしまった。しばらくして男は正しい行いのカゴにそのカードを落とした。

 その次のカードは『右の頬を打たれらなら左の頬も差し出すこと』と書かれていた。男は思わず叫んだ「なんだって」。男は手に持っていたカードの束を荒っぽくめくっていった。カードには『つくり笑いをすること』『負けること』『盲になること』『全知全能になること』と書かれていた。男はだんだん腹が立ってきた。「こんなこと分類できるか」男は吐き捨てるように言うと、まとめて『どちらでもないもの』のボックスに入れた。その後も『ミルクティーはミルクから注ぐこと』『鯛焼きは尻尾から食べること』『靴下は右から履くこと』とカードは続き、『どちらでもないもの』のボックスの中はカードでいっぱいになていった

 男が『正しい行い』の分類を終えると、机の上には淡いオレンジ色の光が射し込んでいた。そのオレンジ色の光を見た男が大きく息を吸うと、夕暮れの空で鴉がカァーッと鳴いた。 男は、まさに吐き出そうとしていたその溜め息を飲み込み、『正しい行ないと正しくない行い』のカゴをワゴンに納めると、ためらいを捨て次の袋の分類にかかった。『笑っている顔は右に、泣いている顔は左に分類すること』『芸術家の絵は右に、子供のいたずら描きは左に分類すること』『スリップドレスは右に、スリップは左に分類すること』『ホテル用のカップは右に、カフェ用のカップは左に分類すること』『朝食用のパンは右に、昼食用のパンは左に分類すること』…。そうやって取出された袋の全てに『世界』と焼き印されていた。その世界に付けられた分類カードの内容は、もはや男には理解できないものばかりだった。『幸せな家族は右に、不幸せな家族は左に分類すること』『快音は右に、雑音は左に分類すること』『やって善いことは右に、やって悪いことは左に分類すること』…。言うまでもなく、『どちらでもないもの』のボックスの数はどんどん増えていった。それでもどうにかこうにか男は仕事を終え、全てのカゴを右と左のワゴンに納めた。窓の外はすでに真っ暗になっていた。

 男はその時、夕闇に浮かぶ我が家の窓を想った。窓から洩れる柔らかな黄色い灯りが恋しかった。その窓の灯りの下では妻が愛情を持って育てている花壇がある。その花壇では、南国に咲く目にも鮮やかな色の大輪の花と、高山の崖に人知れず咲く可憐な花とが隣り合わせに咲いている。妻には不釣り合いにも思えることをいとも簡単に調和させてしまう才能がある。男にとってそんな妻は、間違いなくある種の天才だと確信している。そんな妻の造る花壇は、洗練とはかけ離れているものの、男にとっては心の落着く花壇だった。男はそう思うと、もう居ても立ってもいられなくなり、椅子の背もたれに掛けてあった上着を荒っぽく掴むと、出口に向かって急ぎ足で歩き出した。男はドアの把手に手をかけ勢いよくドアに身体を当てた。だが、把手は空回りし、男はドアに弾かれて床に倒れてしまった。そのドアの把手には『仕事が完了するまで退室不可』と書かれた札がかかっていた。

 男は尻もちを着き、口を半開きにしたまま、しばらくその札を眺めていた。灰色のドアにかかった札は冷ややかな目で男を見つめている。そのとき男は、机の上の指示書の文言を思い出した。『今日中に完璧に分類の仕事を終わらすこと』男はそのままの姿勢で振り返り、机の脇に積まれた『どちらでもない』ボックスに目をやった。それは、確かにやりかけの仕事といえた。男は仕方なく仕事をやり直すことにした。『どちらでもないもの』のボックスの数は十数個あった。どれも分類不可のもので溢れていた。まず、男はボックスの上に重ねて積まれていた数枚の絵を取出し、床に並べてみた。絵は全部で六枚あった。芸術家の絵は右に、子供のいたずら描きは左にと言いながら一枚一枚眺めてみるが、何度見ても、どれも芸術家の絵のようにも、子供のいたずら描きのようにも見えてしまう。仕方なく男は右に並んだ三枚の絵を右の芸術家のカゴへ、左に並んだ三枚の絵を左の子供のいたずら描きのカゴに入れた。同じように男は『どちらでもないもの』のボックスの中のものを、適当に左右に振り分けて行った。

 根が生真面目な男の心は、後ろめたさと敗北感におそわれたものの、とにかく仕事を終えたこととした。男はそれらを左右のワゴンに納めると、急いでドアに向かい把手を廻した。がドアは開かれなかった。仕方なく、『どちらでもないもの』の分類をやり直すことにした。だが、どんなに分類し直しても完璧に仕事を終わらすことは不可能だった。『どちらでもないもの』のボックスには、分類しようのないものが幾つも残っていた。男はその中から無作為にひとつを摘まみ上げた。それは紫色のカードだった。男は紫色のカードを手にとり、しばらく眺めた後、カードの両端を持って前後に引っ張ってみた。が、カードは残念ながら男の意に反して破れてはくれなかった。そこで男は仕方なくそのカードをズボンの後ろポケットに無造作に仕舞い込んだ。次いで男は、分類しきれなかったものたちをズボンやシャツや上着のポケットに無理やり詰め込んだ。男の身体は不格好そのものになり、『どちらでもないもの』のボックスはなんとか空になった。

 男の敗北感はいっそう色濃くなったが、切羽詰まった気持ちがそんなことをとるに足らないものにしていた。男は今や一刻も早くここを出て、妻の待つ我が家へ帰りたくてしょうがなかった。灰色一色のこの部屋がまるで男の墓場のように思えてきたのだ。男は空になった『どちらでもないもの』のボックスを再度確認すると、灰色のドアに向かって足音をたてながら歩み寄った。ドアの把手をしっかり掴み、ゆっくりと廻した。しかし、把手は空回りするだけだった。男はその把手にぶら下がっている札をあらためて読んだ。『今日中に完璧に分類の仕事を終わらすこと』男はズボンの後ろポケットに手をやり、しばらくの間その札を睨んでいた。やがて男はポケットの中の紫色のカードを取出すと、机の引き出しの中からハサミを取り出し、カードを半分に切り出した。が、カードは思いのほか堅くて切れなかった。男は「畜生!」と吐き捨てるように言うと、カードを机の上に叩き付けた。男の顔に苛立ちの色が色濃く浮き上がり、苛立ちでメラメラ燃える二つの目は紫色のカードを睨んでいた。

 それでも男はなんとか苛立ちを押さえながら、どうすべきかを必死に考えていた。机の上にはカードとともにハサミが放り出され、引き出しが半開きになっている。その引き出しから煙草と灰皿が覗いていた。男は、その煙草と灰皿を取出し、「こんなとき煙草でも吸えるといいんだが」と呟いた。男は煙草が吸えなかった。男は苦笑しながら、冷静さを取り戻し、椅子に腰掛けようとしたとき、男はある考えを思いついた。そこで、引き出しを急いで探ってみると、男の思い通りにライターが出てきた。男はライターを取出し点火を確かめた。ライターの炎は思いのほか勢いが良く、それを見た男は自分の企みを思い、思わず口元がを歪めた。だが男はのんびり炎を眺めている時間はない。男は急いで、体中のポケットに詰め込んだ、分類できなかったものたちを机の脇にあったスチール製のゴミ箱に投げ入れた。身軽になった男は再びライターを点火させ、勢いよく吹き出す炎を確かめると、紫色のカードに火を付けた。カードは意外にも簡単に燃え上がった。

 男は燃え上がった紫色のカードを『どちらでもないもの』を投げ込んだゴミ箱の中に落としすと、『とちらでもないもの』たちはいとも簡単に炎に包まれ、轟々と勢い良く燃えだした。男は、その炎を黙って見守った。やがて炎は『どちらでもないもの』たちを跡形もないほどすっかり燃え尽くすと自然に消え、辺りは元の殺風景さと静寂を取り戻した。男の中にも何かが燃え尽きたようなときの脱力感を伴った静寂が訪れた。だが、男はそんな静寂に酔いしれている間もなく、急いで出口に向かって歩き出した。

 男は一歩二歩三歩と勢いよく踏み出したとき、突然口に蓋されたような思いで息を呑んだ。男の見開かれた目は出口のある灰色の壁に釘付けになり、男の心臓は大きくうねった。そこには、さっきまで一つだった灰色のドアが二つ並んでいた。男が狼狽しながらも、とにかく一方のドアに手を掛け把手を廻すとドアは素直に開いた。男がそのドアからそっと小さめの一歩を廊下に踏み出すと、今度は一本道だったはずの廊下が、今や二股に分かれている。男は慌ててドアを閉め、急いでもう一方のドアを開いてみた。するとそこにも同じように二股に分かれた廊下が延びていた。男は慌てて目を閉じると同時に勢いよくドアを閉め、その恐ろしい現実に背を向けるようにして、ドアを背に立ちすくんだ。その男の正面には、さっきまで一つしかなかった四角いサッシの窓が、今や何故か二つ並んでいる。どちらも真っ暗な闇を映し出していた。

 男の目は大きく見開かれ、呼吸はいっそう荒くなっていった。その闇の向こうに男は無意識のうちに何かを必死に見つけようとしていた。しばらくすると闇の中から人の顔が浮かび上がってきた。顔は二つの窓枠によって半分に分断されている。男がそれを妻の顔と認識したとき、男は我に帰ったようにドアに向き直り、把手を廻して外に出ていった。男が左右どちらのドアから出て行ったのか男自身にも覚えがない。だが、とにかく男は部屋の外に出た。男の目の前には二股の廊下が延びている。男は後ろ手にドアの把手を探ってみたが探り当てられなかった。そこで男が振り返ってみると、今出てきたドアが消えていた。

 男はもう驚いている余裕はなかった。二股に分かれている廊下を目の前に、男は慎重に考え、右を選んで進んで行った。廊下の先に階段が見えてきた。そこでも階段は二股に分かれている。今度は左を選んで進んで行った。階段を下り、会社のエントランスに着くとエントランスの出口は二つになっていた。男は二つの出口を目の前に、これで二股の道が終わりになることを願いながら、慎重に考えた。男はようやく左を選んで会社の建物の外に出た。だが結果は同じだった。一本道だった我が家への帰り道はここでも二股に分かれていた。

 男の口は思わず息を呑み、胸は不安で張り裂けそうになり、足は地面に釘付けされたように動けなくなった。 だが、男は我が家に帰りたい一心でその道を踏み出した。男はもはや、どちらかを選ぶことも出来ず足の踏み出すまま歩いて行った。我が家への帰り道は行く先々で二股が現れた。男は惑わされるまま迷い道を歩き続けた。そんな男の目は我が家の面影を求めて彷徨っていた。窓灯りの下で幻想的に照らし出される花壇の花々。ボリュームたっぷりな朝食。そして大らかな豊かさで満ちた妻の笑顔。だが我が家を懐かしむ男の足は、次第に力強さを失い、のろのろ歩きになっていた。そして今にも足が止まりようになった時、男は今朝の自分の思いつきを思い出した。「そうだ、今夜は妻と旨いワインを開けよう」男は、再び妻を求めて暗闇の別れ道を勢いよく歩き始めた。その足は急いでいた。「もうすぐだ、もうすぐ二人でワインを開けよう」男は何度も何度も声に出して言う。だが、その声は男の耳をかすめ、闇の中へ消えていく。この時、男は闇に吸い込まれる男の言葉のように、目の前の道が、妻からどんどん遠ざかり、闇に向かって突き進んでいるような不安に襲われるのだった。

 不安と疲労で浮き足だった男はついに足を取られて地面に倒れ込んだ。そこは泥の中だった。男は転んだまま、泥のまとわりつくような重たい湿っぽさに半身を浸していた。その湿っぽさはじわじわと肌の奥深くにまで浸透してきた。決して愉快とは思えないその感覚に、男は何故か妙に懐かしさと温もりを感じるのだった。その温もりは母の腕の中のようだった。気がつくと男は全身泥だらけで仰向けになっていた。男は泥の重みで身体が重く沈んでいくような感覚に身をまかせ、抵抗しがたい脱力感と、沈んでいるのか昇っているのか分からないような浮遊感を味わっていた。男は何故か脱力感と浮遊感の中で不思議とこう思うのだった。「これでようやく我が家に帰えれる」

 

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