小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

マグノリアの物語 no.1

 彼女は断崖絶壁に立ち、荒れ狂う海に覆い被さる陰鬱な空の向こうを眺めている。かれこれ二時間になる。それが彼女の朝の日課だ。彼女は鷹族である、鷹の視力は人間の500倍。鷹族である彼女は見ることで世界を理解する。

 そこでは、背の低い雑草たちがゴツゴツした岩にへばりつくようにして、崖の上の強風に辛うじて耐えていた。頭上には淡々と時だけが流れてく無表情な薄曇りの空が広がり、大地と空の間を風が吹き抜け余分な熱と湿気をさらっていく。清々しいほど何もない荒凉とした世界。薄曇りの灰色の空の向こうはどこまでいっても何もない。彼女は空っぽの空に向かってつぶやいた。「何もない、それでよし」彼女の名はマグノリア

 マグノリアはさらに灰色の空を見つめる。灰色の空は、空っぽという謎を秘めている。目の前の薄曇りの空は相変わらず何も映しださない。まるで澄ました貴婦人がベールで顔を覆い真意を読み取られまいとするように。灰色のベールの向こう側の世界は頑なで容易には姿を現さない。マグノリアはベールの向こう側の世界の気配を感じとろうとゆっくりと目を閉じ、耳を澄まし、呼吸を整える。やがて頭の中の雑音は徐々に静けさを増し、それにつれて感覚は感度を上げていった。

 感度が上がった世界には張りつめた硬質な空気と、高音で響く風の旋律だけがあった。さらに感度を上げ薄曇りの貴婦人の灰色のベールの向こう側の世界を覗き見ようと試みる。だが、ベールの向こう側の世界は微動だにせず閉ざされたままだった。人間の生ぬるい感傷など一瞬で凍りつくほどの冷ややかな威厳と神秘さをもってマグノリアを拒絶する。

 やがて空と海の裂け目から一羽の小振りな鷹が現れ、崖に向かって真っ直ぐに飛行してきた。鷹はそのまま主人であるマグノリアの肩に止まった。鷹はマグノリアの顔を覗き込む。マグノリアはわずかに顔を傾け鷹と一瞬だけ眼を合わせると、長いスカートの裾を蹴るようにして身を翻し断崖を背に歩きはじめた。足元の大地からは強風に耐えながら岩にへばりつく足の短い草たちが力強い忍耐強さを誇らしげに語りかけてくる。ゴツゴツとした岩は不動の強さを誇り、風はその両者の頭の上をかすめるように軽やかに吹き抜けその自由さを謳歌していた。

 「お帰りマグノリア

 「ただいま、お師匠さま」

 「今日はどうだったかい」

 「変わりないわ。いつも通り。例の農夫が荒れ地を耕していたわ」

 「そうかい。もう何年になる」

 「かれこれ3年」

 「そうかい」師匠は丸い坊主頭で頷きながら目を細めた。

 その晩、崖の上の館はいつものように静寂と深い闇に包まれ、マグノリアもいつものように深い眠りに落ちていった。そこでマグノリアは再び断崖絶壁に立ち世界を眺めていた。目の前に広がる世界は現実世界を超えた美しい世界だった。

 ああ、なんて美しい。

 余分なものが何もない美しい世界。

 神々の住む世界。

 生と死はひとつになり、

 善と悪もひとつになり、

 愛と憎しみもひとつになり、

 光と闇もひとつになった世界。

 永遠の静寂…。

 マグノリアは至福の中にいた。その時ベールを被った貴婦人の凛とした声がマグノリアに告げた。まるで大天使のように。「マグノリア、ここを降りなさい」

 「嫌です」マグノリアは答えた。

 「あなたはもうここにいるべきではありません」

 「何故ですか、私はこの地に辿り着き心の平和を得たのです。なのにこの美しい世界を出て、再びあの情念の渦巻く世界へ降りろというのですか」

 「ここにとどまり続ければ、あなたはあなたの望まない結果を得るでしょう」

 「おしゃることが分かりません。私は嫌です」マグノリアは貴婦人の忠告を拒絶した。

 

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