小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

No.8 彼女はベランダに出ると飛び切り大きな伸びをし

No.8 彼女はベランダに出ると飛び切り大きな伸びをし 

 

 彼女はベランダに出ると飛び切り大きな伸びをし、朝の新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。体中が喜んでいると感じる。幸せな瞬間だ。空は快晴、朝の静けさの中で聞こえてくるのは鳥のさえずりと風の優しい囁きだけ、完璧な朝だ、ただ一つを除いては。

 彼女が伸びをした目線の先に、雑草に覆われた荒地が広がっている。そこは以前、明らかに何らかの目的で人の手で切り開かれた場所だ。誰がどんな目的でどんなふうに使っていたのだろう。その時そこはどんな風景で、どんな音が、どんな声が聞こえていたのだろう。あるいはどんな実りが大地を彩っていたのだろう。すっかり荒地となってしまった景色からは何も想像できなかった。

 今、世界中で荒地が広がっている。荒地の拡大は緑の大地だけにとどまらず、人々の頭のな中でも、心の中でも起っている。止められない世界の荒廃、負の連鎖がはじまってしまったのだろうか。緑の大地を愛し、平和を愛した人々の苦悩は如何ほどだろうか。そんな彼らに何故、情け容赦なく多くの悪意が、多くの銃が向けられるのか。

 荒んだ世界の空は灰色になり、荒んだ世界の海は毒をたっぷりと吸い込む。灰色の空はその大きな両翼で地球全体を覆う。海は境界を知らず、垂れ流された毒はどこへでも流れ込む。世界は繋がっている。

 彼女は改めて荒地を眺める。彼女にはこの荒地が自分に向かって警戒せよと呼びかけているように思えた。私はいつまでこの豊かで平和な暮らしを続けられるのだろうか。世界を巻き戻す術はないのだろうか、平和を取り戻す術はないのだろうか、人類の進化はこの事態を乗り越えて行けるだろうか。

 そんな彼女の憂鬱に構うことなく、目の前の空は相変わらず雲ひとつなく晴れ渡っていた。

 

 

「瀕死の心臓がひとつ」

 

 世界が枯れていく、荒涼とした砂の大地が見える。砂の大地は何処までも、何処までも果てしがない。黄色みを帯びた白い砂の層が地平線の先へと続く。砂粒は音も立てずにサラサラと、世界の果てへと落ちて行っているようだ。その静寂の大地に赤黒く変色し、艶を失った瀕死の心臓がひとつ、裸のままポツンとある。静寂に耳を澄ませると、それは微かだが音と振動をもっていた。まだ息をしているようだ。

 かつてこの地には静謐な美しさがあった。岩肌にわずかだが苔がむし、岩の隙間からはたくましい雑草が生え、海からの強い風に背を低くしながらも大地と繋がっていた。岩陰や湿り気のある土の中では小さな生き物たちの営みがあり、その頭上には素朴で可憐な花が咲いていた。その美しい大地が消えた。そして今、一切の生き物の存在を許さないほどカサカサ

に乾いた世界が広がり、潤いをなくし粉々に砕かれた生き物たちの残骸が砂と化して大地を覆っている。湿気のない乾いた空気は喉を刺すように刺激する。まるで世界の終わりを見ているようだ。もう手遅れだろうか。

 乾いた風に乗って声がやって来た。「ああ、嵐が来る。大地は人間の毒にやられたのだ。強欲な毒に、傲慢な毒に、怠惰な毒に。そして今、人間が終わろうとしている。嵐が来る」。その声は世界中を旅してきた者の声のようだ。遠くの方に人影が見える。声のした方角だ。彼は死の商人だろうか。大きな荷車を牽いている。かなり重そうだ。車輪が半ば砂地に埋まり荷車が左右に軋みながらゆっくりゆっくり近づいて来る。近くに来ると彼はかなり年を取っていることが分かった。彼は私を見てゆっくりと笑った。彼の瞳は年月の重さと虚さと、悲しみの深さと鋭さを持ち合わせていた。彼は身体をすっぽり覆うような裾の長い上着を着ていた。長い年月を耐え抜いてきた上着は痛々しい綻びをあらわにし、砂埃を浴びてすっかり砂色に染まっている。「ついにここまで来てしまった」彼はそう言って、荷車から手を放し、上着をまさぐり、ポケットからタバコを取り出した。ズダズダになった上着から舞い上がった砂埃が煙幕のように彼を覆った。その煙幕の向こうの彼の口元辺りに赤い火が灯った。

 「まさかこんなことになろうとは私自身思ってもいなかった。いや、いずれこうなるかも知れないと思ってはいたが、まさかその時がこんなに早く来るとは正直思ってもいなかった」彼はそう言うと、これが最後の一服であるかのように時間を掛け、じっくり味わいながら一本のタバコを吸い終えると、指先でつまむのがやっとというほど短くなった吸い殻を名残惜しそうにしばらく眺めてから砂の大地に落とした。砂から僅かに焦げ臭い臭いが立ち上がった。それからゆっくり荷車の後ろに回るとカバーの端をめくり、小さな椅子を取り出した。カバーから砂埃が舞上り、再び彼と荷車は砂埃の煙幕で覆われた。そのとき、荷車のカバーの下から銃口らしきものが見えた。

 彼は取り出した小さな椅子を砂の大地に押しつけるようにして安定させると、その小さな椅子にはやや大きすぎると思われる長身の身体を器用に乗せた。その格好は大人が子供用の椅子に腰掛けているような滑稽さと不自然さと窮屈さでかえって男を不器用な人間として見せることになった。だが彼は椅子の不都合など意にかえさず下を向いたまま言葉を探していた。が、やがて語り出した。

 「崖の下の市の人々の渇きはいっこうに止まない。大地と人々の渇きが止まず、天は嵐の準備を始めたようだ」彼の憂鬱そうな口元からゆっくり綴られた言葉が生き物の気配を感じない砂の大地に虚しく吸い込まれていった。

 「これは争いを好まない人々の銃だ」かれは顎で後ろの荷を指して言った。「争いを好まない彼らはこれを放棄し永遠に葬ろうとしている。私は彼らの銃を預かり安全な場所を探して旅をしてきた。本当に長いこと旅をしているが安住の地が見つからない。そしてついにこんな崖の上まで登って来てしまったが、果たしてここは銃を葬り去るのに安全な地だろうか」彼は地面から視線を上げ私の方を見て言った。その眼はやはり虚だが真っ直ぐ私に向かっていた。「教えてくれないか、ここは銃を持った人間たちが襲いかかってきた時にも、銃を使わずになんとか平穏に暮らしていける智慧が残っているところなのだろうか」

 彼の悲しみに満ちた瞳には悲しみの果てしなさという恐ろしさが感じられる。私は彼に返す答えを持っていなかった。両者の長い沈黙。その沈黙という時間が鎮魂歌を奏でているようだ。その鎮魂歌は砂漠の大地に捧げられたのか、それとも人間の愚かさに捧げられたのだろうか。鎮魂歌が大地いっぱいに広がると突然強い風が吹き、彼と荷車の、その形を保つために繋ぎ止められていた微細で儚げな存在の糸を、一瞬にして彼らから解き放ち、彼らの存在を奪い去っていった。繋ぎを解かれ、ちりぢりになった彼らは砂の粒子となって砂の大地に舞った。

 

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