小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

ソフィーの物語 no.4

 ジルと名付けた子犬のために、ソフィーは懐かしい町にやってきた。ソフィーがまだジルのように、この世に恐いものなど何もなかのような顔をして生きていた頃に住んでいた街だ。そこには子どもの頃のソフィーにとって、秘密基地のような特別な場所だった工房がある。1週間前、ソフィーは昔のメモを探し出し工房に電話をかけた。工房はまだやっていた。ソフィーは電話でジルのための首輪を注文した。

 ソフィーはジルを飼うと決めたその日、ジルを動物病院へ連れて行き健康診断をしてもらった。健康診断の結果は良好だった。それからひと月、迷子犬の情報に目を配り、飼い主が名乗り出るのを待ったが飼い主は名乗り出なかった。ソフィーはその時、自分をジルの正式な飼い主にする権利を得たと判断した。今日はそんなジルのために特注した首輪を受け取りに懐かしい街にやってきたのだ。

 その店は、町外れの静かな場所にあった。工房の主人は口数の多いい人ではなかったが、いつもにこやかで子どもの目には幸せそうな人に映った。そんな主人は、大樹が大きな腕を広げるようにソフィーを優しく包み込んだ。子どもの頃のソフィーはそんな工房で絶対の信頼感を味わい、安心と自由の日々を貪った。そこで貪ったのはそれだけではなかった。美しいものが心に与える栄養を貪った。

 美しいものは心を豊かにする。その工房の品々の多くは新鮮な森の空気や岩間を流れる清水にも似た静謐な美しい表情があった。あるいは大地の苔や不揃いな石の持つ素朴なユーモラスな表情があった。それらは知らぬまに人を幸せにする魔法があり、いたずら心はあっても意地の悪さのない世界だった。

 ソフィーはそんな幸せな思い出に浸りながら歩いていると、前方に不吉な影を感じて身を固くした。見るとそれは海辺のお婆婆だった。ソフィーはお婆婆から逃げるように脇道の垣根に姿を隠し、お婆婆をやり過ごした。彼女は昔子どもたちの間で海辺のお婆婆と言われ恐れられていた。まるで心の内に真っ暗な巨大なブラックホールを抱え込んだまま生きているような恐ろしさを感じる人だった。

 ある日、お婆婆はソフィーに言った「所詮人間なんて汚物の詰まったクソ袋さ」。それはソフィーが学校帰りにその工房に寄った帰り道だった。工房の主人の創りだす美しい世界で夢と希望をたっぷり吸い込んだソフィーの顔には、世界の何もかもが美しく感じる薔薇色の妄想が浮かんでいた。そんな時だった。お婆婆が突然道に現れそんなソフィーを見て言ったのだった。「ソフィー、なんて顔して歩いているんだ。夢でも見ているのかい。危なかしい子だね」不意をつかれ動揺するソフィーにお婆婆は顔を近づけ睨むような顔で忠告した。

 「ソフィー、よーくお聞き、現実をよく見るんだ、現実世界の醜さを。人間の底知れない愚かさ醜さ、騙し合いと裏切りに明け暮れる人間たちを。世の中は性欲と権力欲がはびこる世界さ。いいかい、甘ったれた考えなんかを持つもんじゃぁないよ、この世界は金だけが頼りだ。正義だとか愛だとか、砂糖菓子のような甘ったるい言葉に乗るんじゃないよ。所詮人間なんて汚物の詰まったクソ袋さ。善だとか愛だとか、思いやりだとか真心だとか実にくだらん。世迷いごとさ。そんなのクソ袋のカモフラージュに過ぎないのさ」

 ソフィーはお婆婆を睨んだ。するとお婆婆は自分の大きな鼻を、さらにソフィーの鼻先まで近づけて言った「いいかい、どの道このクソ袋たちの世界で生きていかなきゃならないんだ。現実をよく見るんだ、賢く生きるんだ」

 しかし、ソフィーは他人の言葉を鵜呑みにするような従順な子ではなかった。自分の心が納得できていない考えを、素直という徳で受け入れることなどできなかった。ソフィーの心は美しいものを求め続けた。だが社会の中で生きるにつれ見えてきた世界はお婆婆が言ったような人々で溢れていた。ソフィーに絶望がのしかかる。ソフィーはまだその問題を解決できていない。

 昔の嫌な記憶を振り払いながら歩くうち、ソフィーは懐かしい工房が見えるところまでやってきた。工房の外観は少し古びたものの、あのてらいの無い美しさは変わっていなかった。工房の雰囲気も、工房の主人も変わりないだろうか…。

 ソフィーはしばらく足を止め、工房を少し遠目から眺めていた。その時、工房の扉が開き中から大きなバックを下げた若い女が出てきた。彼女はその大きなバックを肩に担ぎ上げると、大股で歩き出した。キャンバス生地でできた丈夫そうなトートバックから油絵のキャンバスの端がのぞいている。画学生だろうか。ソフィーは工房に向かって歩き出した。

 大股で元気に歩く画学生とすれ違った時、ソフィーの中で画学生の姿と自分が重なるようにして、懐かしい姿が浮かび上がった。それはまだ世界を信じていた頃の自分、世界の美しさを、人間の理性を信じて追い求めていた自分だった。

 

「ジェンとケイトと、ソフィーとマグノリアの物語」へ戻る

HOME「小さな物語」へ戻る