小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

マグノリアの物語 no.4

 その家では何もかもが薄暗かった。人の胴回りもありそうな太さの梁が黒ずみとひび割れの痕をさらし、薄暗い部屋の天井を覆っている。梁の至る所には萎びた草や花が吊され、それらはいい香りのするものもあれば苦々しい香りや刺々しい香り、発酵臭のようなツンとする香りのものもあった。煤だらけの竈では大鍋がグツグツという音を立てながら気前よく湯気を立てている。湯気は小さな窓から差し込んだ一筋の柔らかな陽を浴びて輝いていた。それは何もかもが薄暗いこの家で優美な美しさを誇っている。それは神秘的な美しさだ。神秘はいつも謎めいた知性と希望を宿している。

 部屋の中央には大木の腹から切り出された歪な形の大きなテーブルがある。表面は幾重もの年輪の皺をさらし、その半分ほどが形も大きさも不揃いな壷やガラス瓶で埋め尽くされていた。壷やガラス瓶に混じって使い込まれた秤や擂り鉢がある。それらは色褪せた肌や錆びた肌あるいは摩滅してつるんとした肌を至るところで晒し、チリの積もったところでは時の沈殿とやらをたっぷりと身に纏っていた。さらにその上の天井からは鍋やヘラなどがオブジェのように吊り下げられている。テーブルの下でも篭に盛られた草や木の根などが積み重なるようにして山をなしていた。

 ここがマグノリアの新しい生活の場である。マグノリアは部屋の隅に置かれたベッドの上で体を起こし、白いシーツに包まれながら目の前の混沌とした光景を眺めている。やがて目の前の光景は、崖の上で師匠と会話した思い出の場面へと変わった。 

 「万物は神の法則のもと、ただ諸行無常を生きているだけなのでしょうか。時は流れることをやめず、水は高いところから低いところへ落ち、どんなに美しい花も永遠の命を与えられず、平和はいつも揺らぎ、宇宙の万物は引き合うことをやめません。人は宇宙のチリから生まれ宇宙のチリに還り、宇宙さえも無に還る。そこでは意味さえも無に還る。美しい声でさえずる鳥たちは、どうやってこの空っぽの世界を逞しく生きているのでしょうか。考える葦になった人間はそこへ還るべきでしょうか。考える葦はどうやったら空っぽの世界を逞しく美しく生きられるのでしょうか。私はどうすべきでしょうか」マグノリアの話に師匠は黙って耳を傾けている。

 「崖の下の農夫は愚かな農夫にも見えますが、賢い農夫にも見えます。彼は苦労と不条理の中にいますが、彼の顔は輝き柔和です。彼の手足は逞しく、体は丈夫で汚れた大地の毒をもものともしません。彼にはどんな知恵が備わっているのでしょう。私はまだその知恵を習得していません。そして、その知恵が私を空っぽの世界の向こうへと運んでくれるものかも知れないと思うのです」

 「新しい冒険へ出る時かも知れないね」師匠がゆっくりと話し出す。「天空に向かって挑むことも、大地や深海に向かって挑むことも大いなる冒険だ。天空を目指せば光とロゴスが、大地を目指せば命という豊かな恵が、深海を目指せば静寂という安らぎを得られるかも知れない。だが、天空を目指せば自由という虚しさが、大地を目指せば背負いきれないほどの重さが、深海を目指せば光の届かない闇が待ち構えいているもんだ。私たち人類は幸運にも宇宙でも稀な考える葦となることができた。考える葦は世界の観察者であると同時に世界を体験する者でもある。それは苦悩であり、希望でもある。もし多くの知恵を手に入れたいのなら、目の前の出来事から目を逸らさず、しっかり目を開け、あるがままに見ることだ。それができるかな。人は賢くなるにつれ、あるがままに見る目を曇らせてしまう人が多い。正しくあるがままに見ることができれば、それぞれの場所でそれぞれの知恵を得ることができるだろう。いいかい、空は何もないという虚無とは違う。空という世界は無いということだけでなく、有るということも丸ごと飲み込んでいるんだ。そのことを覚えておくといい」師匠はそうマグノリアに説いた。

 マグノリアは再び目の前の光景に心の視線を戻す。部屋は大鍋のグツグツいう音と微かな鳥の声を除いては静寂そのものだった。素肌に当たる綿のシーツの感触は滑らかとは言い難いが、綿の素朴な肌触りには素直さと清々しを味う楽しさがある。そんな綿のシーツにしっかりと包まりながらゆっくりと深い呼吸をし浮遊感を味わう。素直さと静寂を受け入れれば、思考は無重力空間へと昇っていけるのだ。

 やがて朝陽が勢いを増すにつれ、鳥たちのさえずりも賑やかさを増していった。アイオーンの永遠と精神の無重力空間を彷徨っていたマグノリアの思考は、屈託のない鳥たちのさえずりによってクロノスの時間と生命の重さの中に心地よく引き戻された。マグノリアはベッドを出て竈に向かうと水の入ったケトルをグツグツと音を立てている大鍋の脇に置き、パンとチーズをスライスし、マグカップを2個テーブルに置いた。それからベッドを整え着替えをすませ髪をまとめていると真っ赤に熟れたリンゴと、朝露を集めた瓶と、顔を覆い隠すほどの薬草を抱えてお婆婆が森から帰ってきた。

 

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マグノリアの物語 no.3

 その小さな洞窟は断崖絶壁に鎮座するヘソのようだと思った。絶壁の中腹にくり抜かれた小さな穴は、人がひとり座るには十分な広さの空間があった。その洞窟でマグノリアは荒地を耕す農夫を眺めている。これがマグノリアの新しい日課だ。マグノリアの肩では鷹のクーが主人を真似て同じように農夫を眺めている。このひと月、荒地を耕す農夫を観察するためマグノリアは崖の急な曲がりくねった道を登り下りし、絶壁にへばり付くようにつくられた細い道を渡って洞窟に通い続けた。お陰で華奢だったマグノリの足は以前よりずっと逞しくなっていた。

 崖の上から3年、マグノリアは農夫が荒地を耕すのを見ていた。農夫は朝早くから日が暮れるまで荒地を耕すと、夕暮れと共に粗末な小屋へ帰って行き、翌日日の出と共に再び荒地に戻ってくる。農夫はくる日もくる日も荒地を耕したが荒地が肥沃な土地に変貌する様子は一向に見られない。農夫の営みは成功しているようにはみえなかった。それでも彼は同じ営みを繰り返した。それが何故かマグノリアの興味をひいた。そして今、洞窟から農夫の営みを眺めている。

 農夫との距離を縮めたマグノリアは、いっそう注意深く彼の営みを観察した。しかし見えたのは、以前と変わらない営みだった。太陽が東から昇り西に沈む営みが、永遠と変わらないように、農夫は朝に荒地にやってきて大地を耕し、夕に粗末な小屋へ帰って行く日々を繰り返した。それでも一つ発見したことがあった。農夫の顔に苦悩の痕が見られない。

 農夫は徒労を繰り返すシーシュポスの神話の男のようなその営みを続ける。神を欺いた罪で罰を受けたシーシュポスは大きな岩を山頂まで担ぎ上げるが、頂上へ辿り着いた途端岩は転げ落ちてしまう。シーシュポスは再び大岩を担ぎ上げ山頂へ向かう。そしてまた岩は転げ落ち、再び岩を担ぎ上げ…。思えば、美しく咲き誇った花の命も束の間、人間も星さえも生まれては死ぬ。その繰り返しだ。全てはチリから生まれチリに還って行く。全ては無に還る。

 それでもマグノリは、不条理の中の農夫の営みを美しいと感じている。農夫の顔には苦悩の痕がないばかりか幸福感さえ漂ってくる。彼は豊かな稔りを確信しているからだろうか。それとも彼は単に無垢な子どもがそうでるように、何も理解していないのだろうか、それとも彼には不条理のその先の壮大な景色が見えているのだろうか。農夫には不条理という不運を、陰鬱な不幸に貶めない力強さがあるのは確かなように思えた。

 不条理の中で幸福感さえ漂わせる農夫。その秘密は不条理の裏に隠された神の秘密の教えか、宇宙の叡智か、悪魔の誘惑か…マグノリアは益々農夫に興味を抱いた。

 ペストを書いた不条理小説家のカミュはシーシュポスの神話で「わずかな思考は人を生から遠ざけるが、多くの思考は人を生へと連れ戻す」と書き、不条理の問には「高みを目指しての努力はそれ自体人間の心を満たす」と答える。カミユは情念がとぐろを巻く生の世界へ戻って行ったのだろうか。それで幸せだったのだろうか。

 「空の空、空の空、一切は空である」と嘆いたコヘルトは言う「神は人間をまっすぐにつくったのに、人間はさまざまな策略を練ろうとするのだ」「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みもます」。そして言う「太陽の下、私は振り返って見た。足の速い者のために競争があるのでもなく、勇者のために戦いがあるのでもない。知恵ある者のためにパンがあるのでもなく、聡明な者のために富があるのでもなく、知恵者のために恵があるのでもない」世界は不条理であり、全ては空。

 それでも不条理に耐える農夫は美しかった。その美しさは厳しい自然の中で生きる野生動物たちが見せる美しさだ。「知恵はその人の顔を輝かせ、その顔の険しさを和らげる」それはコヘルトの言葉。そこに彼の美しさの秘密があるのだろうか。彼の得た知恵とは何か。全ては空であるこの世界で、彼は空っぽの先にある世界にいるのだろうか。マグノリアの目線の先には相変わらず寡黙な貴婦人のように沈黙する灰色の空があった。

 空の空。マグノリアは呟く。

 余分なものが何もない美しい世界。

 そこは僅かな生き物の気配すら感じられない。

 そう、そこは無。

 そこは生き物の住む世界ではない。

 生命の証であっる息吹すら余分な世界。

 命あるものがとどまることを許されるような世界ではない。

 そこは真に生きるものが望む世界ではない。

 真に静寂な世界…。

 マグノリアの中に新たな了解が生まれた。その時、空の空の世界の静寂の守りが破られ、灰色のベールの貴婦人からの声が聞こえた「マグノリア、崖を降りなさい」。

 それ以来、マグノリアの心と思考は、崖を覆う灰色の空と同じように曇っている。マグノリアは雲のかかった心で考える。空っぽの風が吹き抜ける美しいこの崖を降り、湿った情念がとぐろを巻く大地で生きるために必要なもの。それは生への執着だろうか、権力への欲望だろうか、愛や正義への幻想だろうか…。生の意味を失ったマグノリアの世界では、欲望すら意味を持たず、幻想さえも育たない。マグノリアは、命を生きるための大地を探しあぐねている。

 

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マグノリアの物語 no.2

 でっぷりとした腹の男が、左右に大きく身体を揺らしながら遠ざかっていく。男はどんなに断られても簡単にめげるような男ではなかった。マグノリアはテラスで香を焚き、夕暮れの風の中、籐の椅子に沈み込みながら男を見送っていた。

 その男の心臓は誹謗中傷、罵詈雑言をものともせず、狙った獲物に向かって執拗に食らいついていくタフさを持っている。彼の丈夫な胃は少々の毒にも暴飲暴食にもへこたれないだろう。添加物だろうがコレステロールだろうがアルコールだろうが、何でも消化吸収する頑丈さを持っている。男はこの地にリゾートホテルを建てたいらしい。こんな何もない崖の上に。彼は言う「何もない、これが今セレブの間で大変な人気なんです。自分を空っぽにするために静かに座るという禅が高い支持を受けているんですよ」

 現代人は欲望に疲れたのだろうか、確かにそうかも知れない。本当に欲望から離れたいのだろうか、そうは思えない。少なくとも彼は違う。こんな崖の上まで現世利益の欲望を抱えて登ってきた。彼の欲望への情熱はきっと昔と少しも変わっていないのだろう。彼のような人は何もないという至福の人生とは無縁だろう。世界は彼のような多くの人々の欲望でこれほどまでに豊かになった。それはおそらく事実だ。そして多くの人々の欲望のぶつかり合いで多くの悲しみの涙と血が流された。それも事実だ。マグノリアの思考が動き出す。

 丈夫な胃袋と頑丈な心臓と現世的成功は相関があるのだろうか。丈夫な胃袋と頑丈な心臓は少なくとも現世利益を獲得するための武器として機能しているようだ。彼らの住む現世利益の世界は弱肉強食の世界だろうか。強い者大きい者が勝者であり、強いこと大きいこと、より多くの利益を得ることが、彼らにとって最大の価値である。彼らの食欲に腹八分という発想はない。常に満腹に次ぐ満腹だ。自らの胃袋を常に超えていこうとする人間の果てしない欲望と弱肉強食が結びついた世界、その行き着く先にどんな世界を想像できるだろうか。

 際限なく肥大化しする欲望の貪りで音もなく溜まっていくコルステロールが彼の目を塞ぎ、耳を塞ぎ、手当たり次第に自然を人を飲み込んでいく。マグノリアの心の中に、彼らの中に小さく宿っていた人間の良心が声も立てずに自爆するイメージが浮かんできた。その一方で欲望に疲れた人々の心は痩せ衰え、世界は幅を失い、深さを失い、柔軟性を失い、硬直し、ひび割れていく。それらの無数のイメージ像はマグノリアの心の中で一つに集まり次第に重さを持ちはじめた。

 足元で燃え尽きようとして燻る香の香りがマグノリアを刺激した。その時一陣の風が舞い上がり、燻る香の香りと共に重さを増したイメージを吹き払っていった。マグノリアの心は空っぽの世界を求めはじめた。マグノリアは目を瞑り空気の匂いや硬さ、風の旋律に意識を集中させ思考を止めると、時間と空間の折目から抜け出し空っぽの世界へ旅に出た。

 空っぽの世界はいつものように美しい世界を描き出した。愛も憎しみも高貴な者も賎民も、そして善と悪さえも無意味に還す世界。それはあるがままの世界だろうか…。何処までも透明な世界、それは美しい世界だろうか、残酷な世界だろうか…。

 

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マグノリアの物語 no.1

 彼女は断崖絶壁に立ち、荒れ狂う海に覆い被さる陰鬱な空の向こうを眺めている。かれこれ二時間になる。それが彼女の朝の日課だ。彼女は鷹族である、鷹の視力は人間の500倍。鷹族である彼女は見ることで世界を理解する。

 そこでは、背の低い雑草たちがゴツゴツした岩にへばりつくようにして、崖の上の強風に辛うじて耐えていた。頭上には淡々と時だけが流れてく無表情な薄曇りの空が広がり、大地と空の間を風が吹き抜け余分な熱と湿気をさらっていく。清々しいほど何もない荒凉とした世界。薄曇りの灰色の空の向こうはどこまでいっても何もない。彼女は空っぽの空に向かってつぶやいた。「何もない、それでよし」彼女の名はマグノリア

 マグノリアはさらに灰色の空を見つめる。灰色の空は、空っぽという謎を秘めている。目の前の薄曇りの空は相変わらず何も映しださない。まるで澄ました貴婦人がベールで顔を覆い真意を読み取られまいとするように。灰色のベールの向こう側の世界は頑なで容易には姿を現さない。マグノリアはベールの向こう側の世界の気配を感じとろうとゆっくりと目を閉じ、耳を澄まし、呼吸を整える。やがて頭の中の雑音は徐々に静けさを増し、それにつれて感覚は感度を上げていった。

 感度が上がった世界には張りつめた硬質な空気と、高音で響く風の旋律だけがあった。さらに感度を上げ薄曇りの貴婦人の灰色のベールの向こう側の世界を覗き見ようと試みる。だが、ベールの向こう側の世界は微動だにせず閉ざされたままだった。人間の生ぬるい感傷など一瞬で凍りつくほどの冷ややかな威厳と神秘さをもってマグノリアを拒絶する。

 やがて空と海の裂け目から一羽の小振りな鷹が現れ、崖に向かって真っ直ぐに飛行してきた。鷹はそのまま主人であるマグノリアの肩に止まった。鷹はマグノリアの顔を覗き込む。マグノリアはわずかに顔を傾け鷹と一瞬だけ眼を合わせると、長いスカートの裾を蹴るようにして身を翻し断崖を背に歩きはじめた。足元の大地からは強風に耐えながら岩にへばりつく足の短い草たちが力強い忍耐強さを誇らしげに語りかけてくる。ゴツゴツとした岩は不動の強さを誇り、風はその両者の頭の上をかすめるように軽やかに吹き抜けその自由さを謳歌していた。

 「お帰りマグノリア

 「ただいま、お師匠さま」

 「今日はどうだったかい」

 「変わりないわ。いつも通り。例の農夫が荒れ地を耕していたわ」

 「そうかい。もう何年になる」

 「かれこれ3年」

 「そうかい」師匠は丸い坊主頭で頷きながら目を細めた。

 その晩、崖の上の館はいつものように静寂と深い闇に包まれ、マグノリアもいつものように深い眠りに落ちていった。そこでマグノリアは再び断崖絶壁に立ち世界を眺めていた。目の前に広がる世界は現実世界を超えた美しい世界だった。

 ああ、なんて美しい。

 余分なものが何もない美しい世界。

 神々の住む世界。

 生と死はひとつになり、

 善と悪もひとつになり、

 愛と憎しみもひとつになり、

 光と闇もひとつになった世界。

 永遠の静寂…。

 マグノリアは至福の中にいた。その時ベールを被った貴婦人の凛とした声がマグノリアに告げた。まるで大天使のように。「マグノリア、ここを降りなさい」

 「嫌です」マグノリアは答えた。

 「あなたはもうここにいるべきではありません」

 「何故ですか、私はこの地に辿り着き心の平和を得たのです。なのにこの美しい世界を出て、再びあの情念の渦巻く世界へ降りろというのですか」

 「ここにとどまり続ければ、あなたはあなたの望まない結果を得るでしょう」

 「おしゃることが分かりません。私は嫌です」マグノリアは貴婦人の忠告を拒絶した。

 

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ソフィーの物語 no.4

 ジルと名付けた子犬のために、ソフィーは懐かしい町にやってきた。ソフィーがまだジルのように、この世に恐いものなど何もなかのような顔をして生きていた頃に住んでいた街だ。そこには子どもの頃のソフィーにとって、秘密基地のような特別な場所だった工房がある。1週間前、ソフィーは昔のメモを探し出し工房に電話をかけた。工房はまだやっていた。ソフィーは電話でジルのための首輪を注文した。

 ソフィーはジルを飼うと決めたその日、ジルを動物病院へ連れて行き健康診断をしてもらった。健康診断の結果は良好だった。それからひと月、迷子犬の情報に目を配り、飼い主が名乗り出るのを待ったが飼い主は名乗り出なかった。ソフィーはその時、自分をジルの正式な飼い主にする権利を得たと判断した。今日はそんなジルのために特注した首輪を受け取りに懐かしい街にやってきたのだ。

 その店は、町外れの静かな場所にあった。工房の主人は口数の多いい人ではなかったが、いつもにこやかで子どもの目には幸せそうな人に映った。そんな主人は、大樹が大きな腕を広げるようにソフィーを優しく包み込んだ。子どもの頃のソフィーはそんな工房で絶対の信頼感を味わい、安心と自由の日々を貪った。そこで貪ったのはそれだけではなかった。美しいものが心に与える栄養を貪った。

 美しいものは心を豊かにする。その工房の品々の多くは新鮮な森の空気や岩間を流れる清水にも似た静謐な美しい表情があった。あるいは大地の苔や不揃いな石の持つ素朴なユーモラスな表情があった。それらは知らぬまに人を幸せにする魔法があり、いたずら心はあっても意地の悪さのない世界だった。

 ソフィーはそんな幸せな思い出に浸りながら歩いていると、前方に不吉な影を感じて身を固くした。見るとそれは海辺のお婆婆だった。ソフィーはお婆婆から逃げるように脇道の垣根に姿を隠し、お婆婆をやり過ごした。彼女は昔子どもたちの間で海辺のお婆婆と言われ恐れられていた。まるで心の内に真っ暗な巨大なブラックホールを抱え込んだまま生きているような恐ろしさを感じる人だった。

 ある日、お婆婆はソフィーに言った「所詮人間なんて汚物の詰まったクソ袋さ」。それはソフィーが学校帰りにその工房に寄った帰り道だった。工房の主人の創りだす美しい世界で夢と希望をたっぷり吸い込んだソフィーの顔には、世界の何もかもが美しく感じる薔薇色の妄想が浮かんでいた。そんな時だった。お婆婆が突然道に現れそんなソフィーを見て言ったのだった。「ソフィー、なんて顔して歩いているんだ。夢でも見ているのかい。危なかしい子だね」不意をつかれ動揺するソフィーにお婆婆は顔を近づけ睨むような顔で忠告した。

 「ソフィー、よーくお聞き、現実をよく見るんだ、現実世界の醜さを。人間の底知れない愚かさ醜さ、騙し合いと裏切りに明け暮れる人間たちを。世の中は性欲と権力欲がはびこる世界さ。いいかい、甘ったれた考えなんかを持つもんじゃぁないよ、この世界は金だけが頼りだ。正義だとか愛だとか、砂糖菓子のような甘ったるい言葉に乗るんじゃないよ。所詮人間なんて汚物の詰まったクソ袋さ。善だとか愛だとか、思いやりだとか真心だとか実にくだらん。世迷いごとさ。そんなのクソ袋のカモフラージュに過ぎないのさ」

 ソフィーはお婆婆を睨んだ。するとお婆婆は自分の大きな鼻を、さらにソフィーの鼻先まで近づけて言った「いいかい、どの道このクソ袋たちの世界で生きていかなきゃならないんだ。現実をよく見るんだ、賢く生きるんだ」

 しかし、ソフィーは他人の言葉を鵜呑みにするような従順な子ではなかった。自分の心が納得できていない考えを、素直という徳で受け入れることなどできなかった。ソフィーの心は美しいものを求め続けた。だが社会の中で生きるにつれ見えてきた世界はお婆婆が言ったような人々で溢れていた。ソフィーに絶望がのしかかる。ソフィーはまだその問題を解決できていない。

 昔の嫌な記憶を振り払いながら歩くうち、ソフィーは懐かしい工房が見えるところまでやってきた。工房の外観は少し古びたものの、あのてらいの無い美しさは変わっていなかった。工房の雰囲気も、工房の主人も変わりないだろうか…。

 ソフィーはしばらく足を止め、工房を少し遠目から眺めていた。その時、工房の扉が開き中から大きなバックを下げた若い女が出てきた。彼女はその大きなバックを肩に担ぎ上げると、大股で歩き出した。キャンバス生地でできた丈夫そうなトートバックから油絵のキャンバスの端がのぞいている。画学生だろうか。ソフィーは工房に向かって歩き出した。

 大股で元気に歩く画学生とすれ違った時、ソフィーの中で画学生の姿と自分が重なるようにして、懐かしい姿が浮かび上がった。それはまだ世界を信じていた頃の自分、世界の美しさを、人間の理性を信じて追い求めていた自分だった。

 

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ソフィーの物語 no.3

 私たちはこの罪からいつ自由になれるのだろう。町外れの店先のテラスでニュースサイトを見るソフィーの目に、今日も紛争のニュースが矢のように飛び込んでくる。紛争は悪化するばかりで気が重くなる。ソフィーはサイトを閉じた。

 テラスの最前線で身なりのいい紳士が、締りのいい腹から伸びた贅肉のない足を高らかに組ながら気取ったメガネを掛け、抜け目ない投資家の目付きでスマートフォンのニュース記事をさらっていた。彼の傍には最新のノートパソコンが黒光りしている。

 店先では年老いた主人が陳列棚の前で商品の補給をしている。床に膝を着き、枯れ枝のような身体を可能な限り折り曲げ、窮屈そうな姿勢で棚の下段に重そうな袋物を並べていた。作業着の白衣は黄ばみと汚れですっかり元の白さを失い、張りもなくしていた。袖口と裾のほつれも目立ってきていた。その白衣は主人そのものでもあるようだった。主人が重そうな袋を並べ終えると棚に掴まりながらダラダラと立ち上がり、捲れ上がった作業着の裾も膝の辺りに擦りつけられた埃も払わず店の奥に立ち去った。主人の去った後の棚にはラベルの向きもバラバラな袋が無造作に押し込まれていた。

 店奥のレジカウンターでは主人とは対照的にふくよかな女将が張りのある大きな声で電話をしていた。ニスが剥げ落ち黄金色の艶をとうに失った木製のレジカウンターの上には、分厚い台帳が広げられていた。

 店内では奥のカウンター席に町の男たちが陣取り、テーブル席には女性達が陣取っていた。男たちは恰幅のいい腹か、苦虫を噛み潰したような顔で思い思いの方を向き、女達は親密さや親しげな笑顔を持ち寄り、息のかかるほどの距離で話をしている。テーブルにはバタービスケットやマドレーヌなど馴染みのお茶菓子が並び、女たちは慣れ親しんだ味に心を和ませながら井戸端会議を楽しんでいた。

 その周りで幼い子どもたちは親を真似るように男女に分かれ、男の子たちは互いを牽制するように、女の子たちは互いに密着するように座り、テーブルの菓子に夢中になっている。ソフィーには見慣れた日曜日の昼下がりの光景である。

 彼らは集まること、おしゃべりすることに熱心だ。しかし何のために集まるのだろう、何を求めて集まるのだろう。彼らは接触を好み、争いを好む。長年彼らを観察してきたソフィーの目にはどうしてもそう見えてしまう。それがソフィーを悩ませる。

 彼らは仲間が一番大事だと言う。仲間が大事だという主張にソフィーも異論はない。しかしソフィーには時に彼らの接触は重すぎるように感じる。もたれて絡みつくような重さだ。彼らは噂話を好む。彼らの噂話には尾ひれがつき、その尾ひれにさらに尾ひれがついて噂話はどんどん盛り上がっていく。彼らの噂話に挟み込まれる誹謗中傷はかなり暴力的に見える。やがて憶測に過ぎなかった話がまるで真実のようなエネルギーを帯び、彼らは正義を下すべきだと考えだす。それはSNSの炎上と変わりなかった。

 彼らは普段いたって善人であり、彼ら自身も自分たちは善人だと信じて疑わない。「鈍感な善人ほど質が悪い」ある人が言ったその言葉が、ソフィーの観察結果を強化する。そんな場面に出会う度、ソフィーの中で黒い暴力的な感情が燃え上がってくる。目の前の不快な人々を批難と蔑みの言葉で切り刻みたい衝動に駆られてしまうのだ。

 ソフィーは暴力的な衝動から逃れるため彼らから目を逸らした。ソフィーの目線の先には重たい雲に覆われる陰鬱な空があった。その空の下では原罪の重責に押し潰されそうな、陰鬱な佇まいの教会が口を真一文字にして立っている。

 

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ソフィーの物語 no.2

 砂糖のような甘さを含んだ白いペンキで塗られた店からバターと砂糖の焦げるような香ばしい匂いが漂ってきた。ソフィーは歩きながらその幸せなそれでいて罪深そうな匂いを少しだけ楽しむと、そのまま店を通り過ぎた。白いペンキの店から少し行くと大きな扉が重々しい高級リネンの店が見えてきた。店先にホームレスがしゃがみ込んでいる。そのホームレスを覆い隠すように大きな扉が重々しく開き、中から身なりのいい一人の婦人が店から出てきた。婦人はホームレスに気づくと、ホームレスに嫌悪と蔑みの一撃を与えた。その時、婦人の胸と顎の辺りがほんのわずかだが上へと突き出された。ソフィーは婦人の中の何がしかのエネルギーの高まったのを見逃さなかった。婦人がホームレスに与えた嫌悪と蔑みの一瞥の対価として、何がしかを受け取ったのだと理解した。婦人は派手なピンク色の袋を手にその場を足早に遠ざかって行った。

 ソフィーは高級な店が建ち並ぶ通りを抜け、その先の緩やかな坂を下って行った。坂を下り切ると、向こうから4才ぐらいの元気のいい男の子が駆けてきた。その後ろを母親らしき女がスカートのほつれを気にしながら歩いている。慌てて家を出てきたのかブラウスの襟元が内側に折り曲がっている。男の子はソフィーの近くまでやってくると屈託のない笑顔を見せ、さらに近づくと背中を反るように伸ばしてソフィーを見上げた。ソフィーの心の中に甘酸っぱい透明な風が吹き抜けた。男の子はもう一度嬉しそうに笑うとくるりと身体の向きを変え、母の元に戻っていった。

 母のところまであと一歩といったところで男の子は足元のバランスを崩し、母のスカートの端にしがみつくようにして転んだ。

 「何やっているのよ」母親は子どもを威嚇するような荒々しい声で怒鳴った。それは明らかに反射的な行動だった。男の子の心に暗く重い雲が広がっていく。その暗い雲は胸の辺りから喉を通り頬へと昇っていき、口から雷を轟かせ、両目から大粒の雨を降らせた。

 「うるさい、泣くんじゃありません、自分で転んだんでしょ」母親の声は一段と荒々しくなり、「ほら、立ちなさい」と言うと男の子の手を荒々しく掴んだ。男の子は慌てて体勢を立て直そうとして全身でもがいた弾みで母の手から滑り落ち再び地面に胸から落ちた。男の子の口から母の理不尽な対応に対する抗議が大きな泣き声となって飛び出した。

 ソフィーはその時、男の子の直ぐ脇にいた。男の子の顔を見ると、涙と転んだ時の泥とで可哀想な顔になっていた。彼の人間としての尊厳は彼の顔と同じくらい可哀想な状態にあるように思われた。ソフィーの心臓のある辺りが痛みを感じた。彼は将来、あの暗い雲に支配される人生になるのだろうか、それとも、あの甘酸っぱい透明な風を守れるのだろうか。母親はまだ一度も子どもの怪我を心配する声をかけていない。

 ソフィーは男の子の前で屈み、男の子の両脇を抱え身体を起こすと泥をはらい顔をなでた。男の子は抗議の泣き声を止め、空白な顔でソフィーを見つめた。母親はソフィーの行為に所有権の侵害を申し立てるかのように、荒々しく両手で子どもを掴み、自分の腹に引き寄せ、ソフィーに威嚇の一瞥を投げつけた。ソフィーは母親の一瞥を無視し、無言で立ち去った。

 何やっているのよ、と言われても子どもにしてみれば転んだだけ。何で転ぶのよ、と言われても幼い子が躓いて転ぶことに理由などあろう筈もない。

 「ほら、行くわよ、もう、ちゃんとしなさい」母親の苛立つ声が再開し、子どもが応戦するかのようにまた大きな声で泣き始めた。「泣くんじゃないわよ、うるさいわね、やめなさい」子どもの泣き声が一段と大きくなり、母親と子どもの不毛な闘いが再開された。

 人はなぜ四六時中無意味な闘いに明け暮れているのだろうか。ソフィーは振り返らずに歩き続けた。人はなぜ…、ソフィーいつも問いを追いかけている。それが彼女の問題だった。

 

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