小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

マグノリアの物語 no.4

 その家では何もかもが薄暗かった。人の胴回りもありそうな太さの梁が黒ずみとひび割れの痕をさらし、薄暗い部屋の天井を覆っている。梁の至る所には萎びた草や花が吊され、それらはいい香りのするものもあれば苦々しい香りや刺々しい香り、発酵臭のようなツンとする香りのものもあった。煤だらけの竈では大鍋がグツグツという音を立てながら気前よく湯気を立てている。湯気は小さな窓から差し込んだ一筋の柔らかな陽を浴びて輝いていた。それは何もかもが薄暗いこの家で優美な美しさを誇っている。それは神秘的な美しさだ。神秘はいつも謎めいた知性と希望を宿している。

 部屋の中央には大木の腹から切り出された歪な形の大きなテーブルがある。表面は幾重もの年輪の皺をさらし、その半分ほどが形も大きさも不揃いな壷やガラス瓶で埋め尽くされていた。壷やガラス瓶に混じって使い込まれた秤や擂り鉢がある。それらは色褪せた肌や錆びた肌あるいは摩滅してつるんとした肌を至るところで晒し、チリの積もったところでは時の沈殿とやらをたっぷりと身に纏っていた。さらにその上の天井からは鍋やヘラなどがオブジェのように吊り下げられている。テーブルの下でも篭に盛られた草や木の根などが積み重なるようにして山をなしていた。

 ここがマグノリアの新しい生活の場である。マグノリアは部屋の隅に置かれたベッドの上で体を起こし、白いシーツに包まれながら目の前の混沌とした光景を眺めている。やがて目の前の光景は、崖の上で師匠と会話した思い出の場面へと変わった。 

 「万物は神の法則のもと、ただ諸行無常を生きているだけなのでしょうか。時は流れることをやめず、水は高いところから低いところへ落ち、どんなに美しい花も永遠の命を与えられず、平和はいつも揺らぎ、宇宙の万物は引き合うことをやめません。人は宇宙のチリから生まれ宇宙のチリに還り、宇宙さえも無に還る。そこでは意味さえも無に還る。美しい声でさえずる鳥たちは、どうやってこの空っぽの世界を逞しく生きているのでしょうか。考える葦になった人間はそこへ還るべきでしょうか。考える葦はどうやったら空っぽの世界を逞しく美しく生きられるのでしょうか。私はどうすべきでしょうか」マグノリアの話に師匠は黙って耳を傾けている。

 「崖の下の農夫は愚かな農夫にも見えますが、賢い農夫にも見えます。彼は苦労と不条理の中にいますが、彼の顔は輝き柔和です。彼の手足は逞しく、体は丈夫で汚れた大地の毒をもものともしません。彼にはどんな知恵が備わっているのでしょう。私はまだその知恵を習得していません。そして、その知恵が私を空っぽの世界の向こうへと運んでくれるものかも知れないと思うのです」

 「新しい冒険へ出る時かも知れないね」師匠がゆっくりと話し出す。「天空に向かって挑むことも、大地や深海に向かって挑むことも大いなる冒険だ。天空を目指せば光とロゴスが、大地を目指せば命という豊かな恵が、深海を目指せば静寂という安らぎを得られるかも知れない。だが、天空を目指せば自由という虚しさが、大地を目指せば背負いきれないほどの重さが、深海を目指せば光の届かない闇が待ち構えいているもんだ。私たち人類は幸運にも宇宙でも稀な考える葦となることができた。考える葦は世界の観察者であると同時に世界を体験する者でもある。それは苦悩であり、希望でもある。もし多くの知恵を手に入れたいのなら、目の前の出来事から目を逸らさず、しっかり目を開け、あるがままに見ることだ。それができるかな。人は賢くなるにつれ、あるがままに見る目を曇らせてしまう人が多い。正しくあるがままに見ることができれば、それぞれの場所でそれぞれの知恵を得ることができるだろう。いいかい、空は何もないという虚無とは違う。空という世界は無いということだけでなく、有るということも丸ごと飲み込んでいるんだ。そのことを覚えておくといい」師匠はそうマグノリアに説いた。

 マグノリアは再び目の前の光景に心の視線を戻す。部屋は大鍋のグツグツいう音と微かな鳥の声を除いては静寂そのものだった。素肌に当たる綿のシーツの感触は滑らかとは言い難いが、綿の素朴な肌触りには素直さと清々しを味う楽しさがある。そんな綿のシーツにしっかりと包まりながらゆっくりと深い呼吸をし浮遊感を味わう。素直さと静寂を受け入れれば、思考は無重力空間へと昇っていけるのだ。

 やがて朝陽が勢いを増すにつれ、鳥たちのさえずりも賑やかさを増していった。アイオーンの永遠と精神の無重力空間を彷徨っていたマグノリアの思考は、屈託のない鳥たちのさえずりによってクロノスの時間と生命の重さの中に心地よく引き戻された。マグノリアはベッドを出て竈に向かうと水の入ったケトルをグツグツと音を立てている大鍋の脇に置き、パンとチーズをスライスし、マグカップを2個テーブルに置いた。それからベッドを整え着替えをすませ髪をまとめていると真っ赤に熟れたリンゴと、朝露を集めた瓶と、顔を覆い隠すほどの薬草を抱えてお婆婆が森から帰ってきた。

 

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