小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

ジェンとケイトの物語 no.4

  それはすべてのものが深い闇に息を殺してうずくまる真夜中に起こった。“私とは何か、人類はどこから来てどこへ行くのだろうか”そんな疑問を持つことを自我体験というらしい。自我体験は経験する人と、一生涯経験しない人とがいるといわれる。ケイトが最初に自我体験を経験したのは、ケイトが9歳になるかならないかの頃だった。

 それはある日の真夜中だった。トイレに起きたケイトは、リビングの前を通った時、何か違和感を感じて立ち止まった。明りの消えたリビングは廊下から差し込む明かりで照らされほのかに明るかった。その時、まるで別世界に迷い込んだような不思議な感覚に襲われた。そのリビングは何故か現実から浮遊しているよに見えた。そこでは時の流れが止まり、全てのものの動きが止り、全ての音を失った世界のように感じたのだ。しかし、暗闇のリビングの中で何故かテレビの黒い画面だけが無言の凍りついた世界を逃れ、謎めいた宇宙を思わせる特別な存在感を放っていた。

 真っ黒な四角いテレビの画面は、まるでアーサー・シー・クラークの小説「2001年宇宙の旅」に出てくるモノリスのようでもあった。その漆黒の画面は意思をもった存在として、無言でケイトに対峙を迫った。それは得体の知れない強い引力を持ち、ケイトを芯から揺さぶる。その時ケイトの頭の中にこつ然とある考えが浮かんだ。

 この世界は本当に存在するものなのだろうか、私が生まれてから、いや生まれる前から存在している両親や社会、多くの人の思惑が複雑に絡み合い目の詰まった絨毯のようにずっしりと重くなった世界、それらは本当に存在しているのだろうか。ケイトはまだ成熟していない頭でその疑問について考えた。子どもは大人が思っている以上に賢く考えているものだ。

 この世界は私が見ている幻にすぎないのではないだろうか。あり得ないことではない。例えばこのテレビのように、スイッチがオンになっている時、つまり私が目覚めている時だけ世界が存在していて、私が目覚めていなければ世界は存在しない。確かに常識ではそれはありえない話しかも知れない。けれど誰もそれを私に証明してみせることは出来ない。何故なら私が目覚めていない時に世界が存在することを私に理解させることは不可能だからだ。ケイトはさらに掘り下げようとする。

 もし世界が私の意識や疑問に関係なく存在しているのなら、世界はどんな意味や目的があって存在しているのだろうか。もし世界が私の見る幻に過ぎないとしたら、どんな意味や目的があって私は幻を見ているのだろうか。ケイトの思考はそこで止まった。9歳のケイトにはそれ以上その問題を追求する知識も能力も備わっていなかった。その後その問題は深く追求されることはなかった。しかしケイトの知らぬ間にケイトの無意識は宇宙の存在の謎、意識の存在の謎について関心を膨らませていった。

 人類は宇宙でも稀な好奇心を持ち、探究心を膨らませ謎を追いかけるという才能に恵まれた。謎を追いかけるということは問い続けることである。謎にはさらなる謎や多くの問いが隠れているものだ。注意してさえいれば謎や問いは至るところで、あるいは思いがけないところで発見できる。そして注意深い人はより多くの謎と問を発見し、それがその人の思慮深さをつくるのだ。また、問いは謎多き暗黒の宇宙に挑む知性の光でもある。人類はその暗い宇宙を知性の光で照らし、幾ばくかの謎を解明してきた。それは素晴らしいことだった。しかし、時に問いは、問えば問うほど謎めいた奥深さを見せ、人類を惑わし、混迷を深める世界へ陥れることも度々だった。

 

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