小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

No.15 秋風の心地良い頃に彼はやって来た

No.15 秋風の心地良い頃に彼はやって来た 

 

 秋風の心地良い頃に彼はやって来た。彼は親しげな顔で、窓から半分だけ覗かせ玄関の戸を叩いた。彼女は彼の顔に見覚えがあった。彼は以前、空き家だったこの家を管理していた管理人だ。彼女が玄関の戸を開けると、彼は籠いっぱいの林檎を抱え幸せそうな顔で立っていた。

 彼は挨拶もそこそこに「お宅の裏の森には野生の林檎の樹が沢山あるんですよ。知っていましたか。見てください、この林檎、真っ赤な美味しそうな色でしょう。今裏の森で採ってきたところなんです。昔は秋になると大きな妖精さんと一緒に林檎狩りをしてましてね」と話し出した。

 彼は大叔母のことを大きな妖精さん呼ぶ。彼女も子供のころ大叔母のことを年老いた妖精のようだと思ったものだ。大叔母の顔には長い年月を、自分を失わず立派に生き抜いた者だけが持ち得る品というものが、根っこのある精神の強さがつくりだす軽やかな品というものがあった。

 彼女は彼をリビングに招き入れお茶を勧めたた。リビングのテレビでは若者の自殺のニュースが流れていた。二人は残念な気持ちでそのニュースを聞いた。その時彼は真面目な顔で話し出した「人の心の落ち着き先は、内側から自分自身になること。そこへたどり着いた人には内なる魂がこう囁いてくれる”これでいいのだ”と。そこに絶望はない。ただそこへ辿り着くには時間がかかる。だから焦ることなく生きることです」。話終えると彼は急に顔を崩して照れ臭そうに付け加えた「そう、大きな妖精さんは言っていた」。

 その後彼女はお茶を飲みながら、彼から大叔母の人柄や思い出話を聞かせてもらった。彼は帰り際に籠いっぱいに摘んだ野生の真っ赤な林檎を見せながら「これをこれからジャムにする」と言い、「ジャムが出来たら届けに来る」と約束してにこやかに帰って行った。

 

 

「そこではいつも、何も思い出せなかった」

 

 そこではいつも、何も思い出せなかった。目覚めると私は、微かな記憶の琴線にひっかかる、不可視の闇の中にいた。そんな時、やるべきことはただひとつ、五感を研ぎ澄ませることだ。五感のアンテナをピンと立て、今いる世界を把握することだ。

 ずいぶんとヒンヤリした空気だ、風がない、ここは室内なのだろうか、静かだ、すべての生きものが眠りに就いたかのようだ。なんだろう、暗闇の中になんだか白っぽいものが浮かんでいる。ひとつ、ふたつ、みっつ…、いや、ずいぶんな数だ。なんだろう、整然と並んでいる。墓石か?ここは何処だ。

 ここは何処だ!その問いで胸の奥にかすかな痛みと不安を感じ、私は自分の身体を確認した。半身を起こした私の身体は、腰まで白いシーツで包まれていた。すぐ近くに微かな生きものの気配を感じる。なんだろう…。私はその気配に意識を集中した。それの気配は私の右にあった。私はゆっくりと首をまわしながら右隣りを見た。そこに居たのは白髪の老人だった。彼は堅い石のベッドの上に白い布を肩まで掛け、仰向けで眠っている。横から見た老人の顔は鼻が高く、その高い鼻はスッと天に向かって滑らかに延びていた。耳から顎にかけて白い髭が品良くたくわえられ、顎下の髭は10cmほどあった。誰だろう…。石のベッドの高さはダイニングテーブル位い、70cmほどだろうか、幅は80cmほどでやや狭い。私は自分のベッドを見た。私のベッドも老人と同じ石のベッドだった。

 私は老人から目を離し、もう一度目の前の闇の空間を眺めた。目が暗闇になれてくるにつれ、同じような石のベッドは私の前後左右に等間隔で並んでいるのが見えて来た。そのベッドは果てしなく遠くまで整然と並んでいる。それらすべてのベッドに人が眠っている。前にも見たことのある光景だ。デジャブだろうか…。私は白髪の老人と反対側の左隣りのベッドを見た。そこには美しい青年が眠っている。その青年に掛けられた白い布は腰まで押し下げられ、足の先は白い布から突き出されていた。それが何か釈然としない感じを受けた。しばらく暗闇の中に白くぼーっと浮かび上がるように横たわる青年の姿を見ていた。それから私はようやく思い出した。以前にも私はこの闇の中で目覚めたことがある。そのとき青年の白い布は彼の肩まで掛かっていて、足の先も布で覆われていた。彼は誰だろう…。ここは何処だろう…。

 私はやっと思い出した。そうだ、私はこの闇の中で、何回も目覚めている。ここでは何故か、何時も何も思い出せないのだ。私は、何故ここに居るのだろうか、私は誰なのか…。

 「私は誰なのか」私の内側が発したこの言葉は私に、闇の中で闇を発見したような恐ろしさと不安を突きつけた。私は何者か、私は何故ここに居るのか、私な何をする者か、何をしてきた者か…、次々に言葉が私を責め立てた。私はその問いになす術もなく途方にくれ、闇の中で渦巻く問いの嵐に耐えながら、ただ佇んでいた。どのくらいそうしていただろうか、気がつけば問いの嵐は遠くの彼方へと去り、辺りは再び無言の暗闇が支配していた。

 しばらくして右隣りの老人が突然起き上がった。眠りから目覚めた老人は白い布をゆっくりと払い、堅い石のベッドから慎重に降り立った。「どうなされました?」私は老人にそっと尋ねた。老人は私の質問にゆっくり振り向きながら応えた「ようやく、自分の本当の名前を思い出したもので」。彼は、幸福そうな穏やかな笑みを浮かべると「では、失敬」と言って、風のように軽やかに、音もたてずに立ち去った。

 老人の残り香だろうか、私の鼻先に、ほのかに恥じらうような甘い香りが漂った。老人の立ち去ったベッドを見ると、ベッドの上には、ふっくらと、今まさに弾けんばかりに膨らんだ薔薇のつぼみが一輪、見事な真紅な色で横たわっていた。私は思った。名前を忘れた私には、どうやらまだ目覚めの時は訪れていないのだろう。私は白い布を肩まで掛け直し、再び静かな眠りに就いた。

 

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