小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

No.3 書斎に残された大叔母の大量の本を眺めている

No.3 書斎に残された大叔母の大量の本を眺めている 

 

 書斎に残された大叔母の大量の本を眺めている。この本を大叔母は全て読み終えたのだろうか。こんな田舎にこもり、静かに本と対話する日々を過ごしていたのだろうか。そう思うと本には大叔母の息吹が宿っているようで、手を触れることが躊躇われた。子どもの頃の記憶に残っている大叔母は、老いた妖精であり、不思議な世界にいる魔女だった。本棚から目を離すと、本棚に挟まれるように置かれた小さなライティングデスクの隅に一冊の本がひっそりと立て掛けられていたのに気づく。

 彼女はライティングデスクの前に座り、そっと本を手に取って見た。それほど厚くない本だ。これは大叔母が亡くなる前に読んでいた本なのだろうか、それともお守りのように手元に置いていた本なのだろうか。その本には付箋が一つ貼ってある。慎重にそのページを開いて見ると線が引かれた箇所があり、そこには「わずかな思考は人を生から遠ざけるが、多くの思考は人を生へと連れ戻す」と書かれていた。

 大叔母は何を思ってここに線を引いたのだろう。幼い頃に数えるほどしか会わなかった大叔母の思いなど、彼女に分かる筈もなかった。彼女はそれ以上の詮索を諦め顔をあげると、小さな丸窓から森が見えた。森は黄金色に輝く夕陽に照らされ、神々しく輝いていた。

 

 

「道端の老人は言った」

 

道端の老人が空を見上げて言った。

東の国の神は「空」と説いた。

西の国の神は「空々」と嘆いた。

西の国の神が「空々」と嘆くと世界に虚無が生じた。

東の国の神が虚無に向かって「空」と説くとそこから豊饒の世界が現れた。

 

 道端の老人は、細く長く延びる薄暗い路地の先を眺めながら言う。人は死んだらどうなるのだろう、死の先に何があるのだろう…。人はどうしてそんなことに悩むのだろうかと。

 道端の老人はそして言った。もし、死の先に何か世界があれば、そこから何かをはじめればいい。何もないのなら、神の懐に抱かれ空っぽの安眠をむさぼればいい。それ以上、何を考えることがあるというのだろう。

 命を終えた草花が、朽ちて土となって大地に還り、やがてそこから新しい命が生み出されるように、魂はきっと天に還り、漆黒の宇宙と溶け合い、空っぽの安眠を貪り、やがて再びどこかに生まれ出る。だとしたら、人間の問題は死後の世界じゃない。

 

 あるとき、道端の老人は、不安げな私の顔を見て言った。不快な世間を平然と歩いて行くには、分厚い皮膚で覆われた象の足を持つといい。分厚い皮膚で覆われた象の足、鈍さで武装した象の足は、大地から湧いてくる不快な虫どもの戯事をものともせず、悠然と大地を歩いていけるだろう。

 道端の老人は続けて言う。不条理という魔物が、あらがう事のできないほどの大きな力となり、ついには大河の流れとなって時代を翻弄しようとするとき、濁流に流され、心が絶望の河底に沈んでしまいそうなとき、ずっしり重い腹の据わった頑丈な象の足を持つといい。濁流の流れに耐え、絶望に耐え、踏ん張りつづけられるだろう。

 道端の老人は、目を細め、遥か遠くを見る目で言った。繊細な感受性はわずかな風のゆらぎでも心を揺らす。嵐の荒れ狂う日には、その軽やかな感受性は天高く巻き上げられ、あらゆる方向に翻弄され、身も心も散りぢりになるだろう。そんなときは波止場の係船柱のような不動の象の足を持つといい。嵐に翻弄される繊細な心を地上につなぎ留めてくれるだろう。

 

 あるとき、道端の老人は、沈んだ私の顔を見て言った。繊細な感受性とは厄介なものだ。繊細な機器が不具合を起こしやすいように、繊細な感受性はガラス細工のように壊れやすく、ちょっとした風でも水鳥の羽毛のように頼りなげにふわふわと舞い上がる。研ぎ澄まされた繊細な感受性は、世界の背後で蠢く残忍さを、人間の中の救い難い愚かさを、真理の底に背筋が凍るような虚無を見てしまうこともある。そして時に繊細な感受性は、象が足裏で遥か遠くのモノ音を聞き取ってしまうように、遠い先の未来の足音を聴き取ってしまうこともある。そんな時は誰にも聴こえない未来の足音を聴きながら、たった独り部屋の片隅で膝を固く抱きしめることになる。

 それでも感受性は大事にしなさい。研ぎ澄まされた繊細な感受性は、宇宙が奏でる真に美しい天球の音楽を聴くこともできる。小さな野の花の中に大宇宙の偉大さを見ることもできる。川の流れの先が滝壺に通じていることを聴き知ることもできる。あるいは風の便りで春が近いことを嗅ぎ取ることもできる。そして何より素晴らしいことは、真の魂と共にあることができるということだ。

 

 あるとき、道端の老人は、傍らで彼を見上げる私を抱き寄せて言った。そんなに心配しなくても大丈夫だ。世間の戯言や瞞しは、所詮戯言であり瞞しだ。そんなものに構う必要はない。上手に逃げる道を探してみるといい。もしどうしても逃げられない時は、大切な心を自分の世界に避難させてあげればいい。それでもうまく行かない時は、敵の正体を見破ることだ。正体を見破られた戯言や瞞しは、もう相手を惑わすことができなくなる。

 いいかい、繊細な感受性を持つ者にとっての最強の武器は、鋭い感性だ。敵の正体を射抜くような鋭い感性の目だ。怯える感受性を奮い立たせて、感性の目を知恵の火で鍛え直し、敵の正体を射抜くような鋭い知恵の剣に仕立てるといい。あるいは、その子どものような透明な感性の目で全宇宙を見通すような透明な知恵を持つことだ。あるいは、その広く深い感性の目で万物を包み込むような太母の知恵を持つことだ。

 そういう知恵を育み、そういう知恵の織物でガラス細工のような壊れやすい心を包み込むこといい。そうして真の魂の声を聴くことができる繊細な感受性をむやみに殺すことなく錆びつかせることなく、逞しく生きる道を模索するといい。そうすればたとえガラス細工のように脆い繊細な感受性を持っていても、逞しく生きられる道が見つかるだろう。幾重もの知恵の織物で包み込まれた感受性は案外丈夫なものだ。ただし丈夫な知恵の織物を織るのには時間がかかる。それには知恵を育む努力を怠らないことだ。

 

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