小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

No.9 道の向こうに小さな小屋ひとつ分もありそうな大きな岩が

No.9 道の向こうに小さな小屋ひとつ分もありそうな大きな岩が

 

 道の向こうに、小さな小屋のひとつ分もありそうな大きな岩が見えてきた。それは大地にできた巨大なコブのような姿で、あるいは天から落ちて来た小さな惑星のような姿でそこにあった。周囲は何もない開けた田舎道だ。彼女はいつも不思議に思いながら、いつもと同じように、道路脇にあるその大きな岩を、かすめるように横切りながら村に向かって車を走らせた。

 今日はいつになく空が重い。今にも泣き出しそうな空だ。そんな日は、大概の人の心や体は軽やかさや活発さを失う。彼女は思った、そんな日にはきっと、そんな日にふさわしい過ごし方があるのだろう。けれどやっぱり爽快な気分になれる快晴の空が好きだ。明日は青々と天高く晴れ渡った空が見られるだろうか。

 

 

「アトラスになってはいけない」

 

 アトラスになってはいけない、頭の奥の方で声が響く。その声のする方をたどっていくと、視界を奪われつつある夕暮れ時のころのような暗さの中、ひとりの大男が重そうな石の大きな玉を肩に担ぎ上げ、足を大地に踏んばる姿が見えた。石の大きさは大男が両腕でやっと抱えられるほどの大きさだ。重さはどのくらいだろうか、密度の粗い石なのか、密度の詰まった石なのか…、男の顔は眉間のあたりで大きく歪み、辛そうだ。石を担ぎ上げる腕、大地を踏ん張る足、どちらも古代の戦士のように逞しい。石は相当に重いに違いない。

 彼はアトラスなのだろうか。アトラスとは、支える者、耐える者、刃向かう者である。彼が全知全能の天空神であるゼウスに、世界の西の果てで天空を背負うように命じられたのは、遥か遥か昔のこと。それは、巨神族である大地と農耕の神クロノスが、天空の神ゼウスとの戦いで敗れたという、遥か遥か昔のこと。

 アトラスの苦痛に歪んだ顔を見つめていると、アトラスが語り出した。「遥か遥か昔、天空は晴れ晴れと輝き、余分を持たず、今よりずっと背負いやすかった。時とともになぜか天空は重さを増し、世界は日々暗さをましている。わたしの、この荷を負う忍耐は心身ともにそろそろ限界に近づいている。あとどのくらいもつだろうか、重さに自由を奪われ、関節という関節は遊びを失い、動きを失い、柔らかさを失い、縮んでいく。すでに肩も背中も腰も巌のように硬い。わたしの背負う天空はわたしに何をもたらしてきたのか。ゼウスのいう秩序と支配はなぜも日々重さと暗さを増すのか。わたしは今、切に願っている。もう、この荷を降ろしたい、この苦役から逃れたい」と。だがその願いも虚しく、やがてアトラスは全身巌となり、終には不動の山となった。

 命を育む柔らかさと潤いが山頂の大地から消えはじめ、やがて地球は肥沃な黒く柔らかな大地から、痩せた白く硬い大地へと変貌していった。湿った大地の懐でうごめいていた無数の虫たち、大地を肥沃にする無数の小さな生き物たちはどこへいったのだろうか。

 「アトラスになってはいけない」再び頭の奥の方で声が響く。巌となり山と化した、大地と農耕の巨神族であるアトラス、彼に何ができただろうか。彼は、全知全能で天空の秩序と支配をつかさどる神ゼウスに刃向かうことはできただろうか。豊穣をもたらす大地のカオスを再び自分のものとすることはできただろうか。

 

 嵐の風が吹きはじめた。

 風はアトラス山脈の頂を叩く。

 頭を叩かれたアトラスは、何を思うだろう。

 天と地が引き裂かれれば、何が起こるのだろうか。

 天と地が衝突すれば、何が起こるのだろうか。

 

 私はアトラスの元を離れることにした。アトラス山脈から舞い上がったチリが、地球の重力を離れ、宇宙へと昇っていくのが見えた。限りなく小さな粒になり、重力の網の目から逃れたアトラスが、上へ上へと昇っていく。

 「嵐の風に乗れ」という声が聞こえた。その声は重荷を脱ぎ捨て、乾いた灼熱の大地を離れ、小さな名もなき者となった人々の軽やかな声だった。彼らは小さな者が持つ自由の翼を取り戻した。

 

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