小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

No.10 陽だまりの中、無心の目を輝かせた男の子たちが 

No.10 陽だまりの中、無心の目を輝かせた男の子たちが 

 

 陽だまりの中、無心の目を輝かせた男の子たちがジャングルジムを競うように登っている。精神の自由という翼が眩しく輝いている。ジャングルジムを登った先には何もない。何もない天辺に向かって登っていく子どもたちの精神に躊躇いや虚しさという影は微塵もない。それどころかこの無意味な行為に夢中になり、全身全霊で何度も何度も挑戦する。少なくともこの瞬間、彼らの人生は完璧に彼らのものだ。

 そんな精神の輝きはどこから生まれるのだろうか。彼女はそんな問いを彼らに向かって投げかけてみた。そこから見えてきたのは、ジャングルジムという世界に没入し、ひたすら目の前の課題に取り組み続ける姿だった。目の前の課題に全身全霊で向き合う行為の中に精神の自由が生まれるのだろうか。精神の自由とはいったい何なのだろうか。彼女は膝の上に乗せていた本を閉じ、公園のベンチを後に歩き出した。

 

 

「神に愛された男」

 

 あるところに、大きな岩を山頂へ向かって転がし続ける男がいた。男は「神に愛された者」と呼ばれている。その男の大地を踏んばり続けた足は象の足ように太く、大きな岩を押し続けた腕は大蛇のように逞しかった。その男は決して筋肉たくましい大男でもなく、眼光鋭い切れ者でもなく、弁舌たくみな者でもなく、勇猛果敢な戦士でもなかった。そんな男が「神に愛された者」と呼ばれたのは、男の心はどんな困難にあっても決して壊れることがなかったからだ。

 

1.焼かれること

 そこは真っ赤に燃え盛る炎が火柱を上げる火口だった。火口からは大地の怒りとあらゆる欲望の業が絶え間なく吐き出され、火口の奥深くには真っ赤に燃えたぎるマグマが涸れることなく湧き続けている。煮えたぎった濃厚なスープのようなマグマからは、キノコ雲のような泡がぶくぶくと沸き起こり、火口の中で暴れ回っている。マグマは底なしの欲望に満ち、その強力な消化能力であらゆる欲望を次から次へと飲み込み、その煮えたぎる大釜の中にすべてを溶かし込みむ。

 そこに一人の男が煮えたぎる火口の淵で、熱さに堪えながら足を組み、眼を瞑り、黙して静かに座っている。男はもうすでに、かれこれ七日も座り続けている。今日で八日目だ。男は灼熱の太陽とマグマに焦され、焼けつく熱さに苛まされ続けた。男の肉体はすでに限界に近い。だが男はあと一日座り続けなければならない。神は男に、三の三倍の日数だけ座り続けるように命じられたからだ。

 まる七日間と半日太陽とマグマに焼かれた男の皮膚の赤みは尚も刻々とその深みを増していく。内臓にまで達したその熱は男の体中を駆け巡り、すでに心の臓にまで達しようとしている。それでも男の心の臓は冷静さを保ち、なんとか熱さに持ち堪えている。夜になると怒り荒れ狂うように轟くイナズマが男の耳と心臓を縮み上がらせたが、灼熱の太陽が姿を消して熱さの和らいだ夜の空気は、男の肉体的な苦悩を幾分和らげた。

 翌日になるとまた男は灼熱の太陽とマグマの熱に焼かれた。男の心の臓は最後の力を振絞り熱さに堪えている。だがそれもすでに限界に達している。もはや男の眼は締まりが無くなり、その視界はぼやけはじめ、焦点が定まらず意識は宙に彷徨い出した。男は瞬きをしながら焦点を取り戻そうとするがそれは無駄な努力に近い。ついにはその定まらない焦点を追いかけるかのように白昼夢が浮かび上がってきた。白昼夢に現れた化け物たちは、男を容赦なく襲い続け、男を縮み上がらせる。

 大口を開けた頭を八つ持つ巨人は互いの頭を罵り合い食らい合っている。恐怖で眼球が飛び出した九つの眼を持つ巨大なモグラは耳をつんざく悲鳴をあげながら体を大きく震わせ、その震動は地響きのように大地を揺らした。百の足と百八つの手を持つ巨大なムカデはあらゆるものを掴もうと四方八方に力の限りを尽くして手足を延ばし、荒々しい息で喘いでいる。そのからだは引きちぎられんばかりになっている。男はその情景を見据えたまま動かない。欲望の化け物たちの慟哭は激しさを増していく。

 男は自分はまだ正気を保っているのか、既に意識の限界を越えてしまっているのか、それすら分からなくなっていた。男が最後の意思の力を振絞り、祈るように肚にぎゅっと力を入れると、化け物たちは世にも恐ろしい断末魔をの声をあげ、男の耳をつんざいた。男の鼓膜は苦痛のあまり、全ての音を閉め出した。

 

2.凍えること

 次の瞬間、男は闇と静寂の中にいた。辺りは冷んやりとした空気に満ちている。一筋の光も射さないその暗闇は彼の眼からすべての探索機能を奪った。男が手探りで辺りを探ってみるとそこは、冷たく湿った土に囲まれた小さな空間だった。その冷たく湿った土は男の焼けただれた皮膚と煮えたぎった血を冷まし、闇の静寂は欲望の絶叫に引き裂かれた耳を癒した。やがて男の体に冷んやりした静寂が訪れ、静寂は男の脳の中にも広がってき、男を眠りに誘った。男はまどろみの中で土の冷たさだけを感じていた。

 夢の中で男の眼は徐々に視力を回復していき、やがて、冷たい土の中で凍える小さな植物の芽を見つけた。その傍では小さな虫が仮死状態で横たわっている。男は植物の芽をそっと掘り出すと、痩せ細った弱々しい根を両手でそっと包み込んだ。すると灰色の植物の芽は僅かに青みをさしたように思えた。男はその植物をそっと懐にしまい、次いで仮死状態の小さな虫を優しく拾い上げ、同じように両手で暖めてから植物と一緒に懐にしまった。男の体温はかなり下がってはいたものの、凍える小さな植物や虫たちよりはずっと暖かく、男の懐は凍える小さな植物や虫たちを暖めるには十分だった。男は懐に植物と虫を抱いたまま、眠りの中の眠りに落ちていった。

 やがてその眠りの中で男は微かな音を聞いた。その音は虫の音のような小ささで、心臓が打ち鳴らす鼓動のように一定のリズムを刻んでいる。そのリズムはやがて囁き声に変わっていった。囁き声が何と言っているのかは分からなかったが、とても心が安らぐ囁きだった。その囁き声に耳を傾けるうち、男は眠りから覚めていった。眠りから覚めた男は以前と同じ冷たい闇の中にいた。男は懐の中を探ってみたが、そこには何もなかった。

 男は冷たい壁を押してみるが壁はびくともしない。仕方なく男は再び岩のように黙って座っていたが、やがて息苦しさと寒さに堪えかね土壁を掘りはじめた。思いのほか土壁は硬かく、掘っても掘っても思うように掘り進まなかった。天井の土は硬い壁と反して意外にも脆く崩れ落ちた。掘れば掘るほど天井の土が崩れ落ち男はさらに土に埋もれるのだった。そこで男は硬い壁と脆い天井の間を、土に埋もれながらも粘り強く掘り進めた。男は黙々と掘る。そんな男の腕は次第に逞しくなった。暗闇に目が馴れたのか、男は周囲が少し見えるようになったと感じた。しかし状況が良くなる気配は一向に見えてこない。男の精神はこの最悪な状況に必死で堪えている。この過酷な状況で男を支えているものは、終わりがないと思える悪夢にも必ず終わりがあるという信念だった。

 そしてついに、壁を掘り進める男の指先に、何か繊細な柔らかなものが当たった。それは植物の根だった。根の周りを掘り進めると、根の先に、必死に生きようとしている小さな植物の新芽が現れた。それは眠りの中で懐におさめたあの植物だろうかと思った。こんな硬く冷たい土の中でも小さな命は必死に生き延びている。その姿に感動した。すると今度は、硬い壁の中から一匹の小さな虫が這い出してきた。その命の力強さにも男は感動し、泥だらけの両手で顔を覆い、神の御技を讃えた。虫は辺りを脈絡もなく飛び回った後、壁に止まったまま動かなくなった。その壁をよく見ると、そこに針ほどの小さな光の穴が見えた。虫はしばらくそこに留まったままじっとしていた。男は息を凝らし虫と小さな光の穴を希望を持って見つめた。虫はやがて何かを決心したかのようにその小さ翅で小さな光の穴の中に飛び込んだ。次の瞬間男の体は突然軽くなった。

 

3.流されること

 男は浮いていた。どうやら川に浮かんでいるようだった。川の水は冷たくはなかった。辺りを見回すとそ川の両岸には青々とした緑が茂っている。その川の幅は男の両腕を伸ばした長さの十倍はある。川の流れは比較的緩やかで、男はしばらくその川にぷっかり浮かぶような格好で空を眺めていた。青い色をした空では、雲たちが男と同じようにのんびりと漂っていた。

 男はやがて目をつむりゆったりした時間の中に沈んでいった。ゆったりした時間の中で男はこれまで縁のあった人々の顔を思い浮かべていた。子供の頃から大人になるまで、男は様々な人に愛され守られ、ときに騙され、迫害されてきた。だが男はそんな全ての人の顔が同じように愛おしく思えるのだった。すると男の眼から涙が流れた。男が眼を開けると目の前に広がる空は灰色に変わっていた。男の顔にぽつりと雨が落ちてきた。雨はじきに激しくなり、男を激しく打ちつけた。

 男は川岸に上がろうと泳ぎはじめたが、川かさはあっというまに増え、川の流れは速まり、男は流された。男はときに岩にうち付けられ、ときに渦に巻き込まれながら流されていった。そうこうしながらも男は徐々に川岸へと近づいていった。ようやく川岸に手が届きそうなところまで来ると必死で茂みに手を伸ばし草を掴んだ。が、掴んだ草は呆気無く男と一緒に流されてしまった。男はそれでも手を延ばし続けた。男は草を何度も何度も掴んでみるのだが、掴まれた草たちはすぐさま悲鳴を上げ、川の流れの中に切れ切れになって消えていった。

 男の眼は雨と疲労でかすみはじめていた。やがてかすんだ目の先に、川岸の草たちに混じって一本の手がかざされているのが見えた。男はその手を必死で求め掴んだ。が、次の瞬間、その手は幻のように消え去ってしまった。だがしばらくすると幻の手は次から次へと現れ、哀れな男に向かって手を差し延べていた。男は幻の手に騙され続け、流され続けた。それでも幻の手は次から次へと現れ、男はためらうことなく騙され続けた。

 しかし、やがて男の中にもためらいが生まれはじめ、男の中に重さと疲れを生みはじめた。男の手はだんだんと沈みはじめ、幻の手を掴む回数も減っていった。そんな状況の中でひとつの歪でゴッツイ手が現れた。そのゴッツイ手は節々が太く、皮膚はカサつき、その色は泥にまみれたような土色だった。男はその歪なゴッツイ手に救いの声を聴いた。男は最後の望みを託し、最後の信じる力を振絞りそのゴッツイ手に掴まった。その手を握った瞬間、そのゴッツイ手は太くて丈夫な木の根に変わっていた。男はなんとかその木の根に掴まり岸へと上がることが出来た。

 

4.大きな岩

 ようやく岸に上がった男の頬はげっそりと痩け、濡れて縮れた髪には切れ切れになった草が絡み付き、衣は引き裂かれたようにボロボロだった。男は足を引きずるようにしてそれほど深くない森を抜け、日の暮れる前に町に辿り着いた。男は町の片隅に崩れるようにしてしゃがみ込んだ。そんな男の前を何人かの町人たちが通り過ぎていく。皆、仕立ての良さそうな服を着、丁寧に磨かれた靴を履いている。だが、今にも倒れそうな男を気にとめる者はいなかった。

 男は疲れと空腹でいよいよ地面に沈み込むように倒れ、虚ろな眼を天に向けた。天は徐々に暗くなり、闇にすっかり覆われると、男の眼は世界の全てを見失った。眼を開けておく意味を失った世界では聴覚が鋭くなり、男は多くの声を聴き取っていた。風の音、草木が呼吸する音、大地の鼓動、そして人々の声にならない声を。その声は、熱い思いを語るもの、心を鋭くえぐられ苦痛に喘ぐもの、重さに押し潰され呻くもの、散り散りに飛ばされ泣き叫ぶもので溢れていた。

 そんな声の中に、ひときわ深いところからやってっくる力強い声があった。その声はひたすら沈黙する声だった。男はその沈黙する声が語りだすのを待ったがやはり沈黙する声は沈黙を守っていた。男も沈黙を守り耳を澄まし、微動だにしない。そんな男の体は硬直し、徐々に感覚が失われていった。その時、感覚の鈍った頬に何か生温いものが触れた。その生温いものは彼の頬を優しく愛撫している。やがてその愛撫は頬にとどまらず全身に及んだ。その優しさに満ちた愛撫の中で体の硬直が弛み、男は深い眠りに落ちていった。

 翌朝眼を覚ますと男の傍らには寄り添うように野犬が休んでいた。野犬は男の足下に平伏すように二頭、背後を警護するように一頭、頭を守るように一頭、そして正面にやや離れて控えるように一頭いた。男は起き上がり、立ち上がった。立ち上がった男の体からは昨夜までの疲れが跡形もなく消えていた。男は当てもなくゆっくりと歩きはじめた。するとすぐに一頭の野犬がやってきて、道案内をするかのように男の前を歩きはじめた。男が野犬に従って歩いていくと、町外れの大きな岩のところに行き当たった。

 岩は男が両手で抱えるのがやっとなほどの大きさがあった。その岩の表面は、まだ人々が見えないものを信じていた頃の古い言葉がびっちりと刻まれ、古の荘厳な佇まいを持っていた。その岩は夕べの「沈黙する声」の主だった。男はその岩をしばらく眺めていたが、男の眼が岩の向こうにそびえる山をとらえたその時、何をすべきかを理解した。

 町では大岩を転がす男の話題で持ち切りだった。だが、何故男が岩を転がすのか。人々には理解できなかった。男は来る日も来る日も山頂へ向かって大岩を転がしている。その岩はあまりに大きく重く、彼は度々やりそこなって岩もろとも山の麓まで転げ落ちるのだった。大岩はときに男の体を押し倒し、ときに跳ね飛ばし、ときに押し潰しながら転り落ちていった。男はそれでも大岩を転がし続けた。男には分かっていた。この作業は永遠に完成されないだろうということを。それでも命ある限りこの岩を転がし続けばならないことも理解していた。来る日も来る日も山頂へ向かって大岩を転がし続けた男の足は次第に象のように太くなり、腕は大蛇のように逞しさを増していた。だがその顔は輝きと柔和さに満ちていた。

 ある日、男は風の中に神の声を聴いた。その声は沈黙する岩のように重々しく、そして凛として男の耳によく響いた。「愛する者よ、そして誰よりも、私を愛した者よ、もう休むがよい」。男は神の言葉に満たされ、大地に横たわり天を仰いだ。天は穏やかに晴れ、その雲一つなく澄み切った空には無限が広がっていた。

 

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