小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

アップルと林檎-No.1 彼女の小さな家の二階の北側に

No.1 彼女の小さな家の二階の北側に

 

 彼女の小さな家の二階の北側に、本棚で埋め尽くされた書斎がある。書斎の反対側の、南に面した寝室は日当たりも風通しも申し分なかった。二階は書斎と寝室と屋根裏の小部屋に通ずる階段があるだけだった。一階は広々としたリビングとダイニングで、南の面にはテラスが張り出し、その先に青々とした緑が広がっている。

 彼女がこの家に越して来たのは最近のことだ。この家は元々祖母の妹、つまり大叔母の家だった。随分前に、独り者だった大叔母が亡くなり祖母も亡くなり、既に未亡人だった母がこの家を相続した。母はこの田舎の家を好まず、他人に管理を任せていた。その母も昨年亡くなり、彼女がこの家の相続人になった。それを機に、街からこの田舎に越して来たのだ。

 彼女の母も祖母も生まれた時から都会で暮らして来た人だった。そして彼女も生まれた時から都会に暮らし、都会暮らしの利便性、文化の先進性を享受して育った。彼女の感性はそれを楽しみ、一方で自然への憧れも持ち続けた。時が進み、そして時代が進み、いつしか都会は彼女に余所よそしい顔を見せはじめた。彼女は自分を育てた都会が今や乾いてささくれ、錆びて色褪せ、彼女が愛した都会とは全く違う街になってしまったように感じていた。それは彼女が変わったせいのか、時代が変わったせいのか分からない。そんな時、大叔母の家の相続は彼女にとって絶好のチャンスだった。彼女は迷わず、直ちに田舎暮らしを決行した。

 大叔母の家は立派とは言えなかったが、幸い頑丈に建てられていた。おまけに年代物の家具もそれほど傷んではいなかった。そのため、大叔母の家の年代物の家具や田舎風情の内装をそのまま残し、補修だけを行った。暮らすにはそれで十分快適だった。

 子どもの頃、何度かこの家に遊びに来た記憶が残っている。しかし記憶はわずかであまりはっきりしていない。それでも子ども心にしっかり刻まれた記憶もある。そのひとつは、この家がまるでおとぎ話に出てくるような家だと思ったことだ。都会暮らしだった彼女にとって自然に囲まれた田舎家は、まさにおとぎの国の家そのものに思えた。

 もうひとつの記憶は、大叔母その人の印象だ。彼女は記憶を辿ってみた。大叔母は無口な人だったように思う。はっきりとした顔は思い出せないが、白髪が美しく気品のある笑顔がどこか世俗を離れた印象を与える人だった。それは子どもの目には、年老いた妖精のように映った。今にして思えば、そんな大叔母はかなり内向的な人だったと推測できる。

 大叔母の家に越して来てひと月が過ぎ、新しい暮らしが落ち着きはじめると、彼女は天気の良い朝には決まってテラスで食事するようになっていた。そんなある日、彼女は二階の書斎の様子が急に気になりだした。越して来たその日は、その扉は他の扉とはどことなく違った面持ちを感じ開けることを躊躇った。どんな違いと言われても困るような微かなものだった。それでも彼女は躊躇いながら明かりをつけると、そこは書斎だった。その時は、扉口からそっと中を覗いただけで、そのまま扉を閉めた。

 そして今、この時、これまで入ることを躊躇っていた二階の書斎に踏み込む時だ来たと感じた彼女は手にしていたカップを置くと、深呼吸をして立ち上がった。

 二階に上がり、書斎の扉に手をかけると、扉はスムーズに開き、静かな沈黙で彼女を迎え入れた。書斎に踏み込みぐるりと全体を見回すと、壁という壁は天井まで届く括り付けの本棚で埋め尽くされ、本棚には隙間なくビッチリと書物が詰め込まれていた。天井まで届く本棚には小さな梯子が掛けられ、それはまるでちょっとした図書館のような錯覚すら感じさせる雰囲気だった。 

 北側の小さな丸窓からは、穏やかな光が差し込んでいた。窓の下には小さなライティングデスクがあり、そこにはアジアの土産品のような素朴な木彫りの置物があった。「何だろう、動物だろうか」。その窓から近くの森が見えた。東側には掃き出し窓があり、寝室に繋がるバルコニーがあった。窓の側には一人用のソファーとオットマンと小さなテーブルが当時を思わせるままに置かれていた。きっとここで大叔母は読書をし、お茶を飲み、時にはそのまま昼寝をしたのかも知れない。そんな姿が容易に浮かび上がる。

 この家には家具や壁が今にも語りかけて来そうな雰囲気がある。彼女はそう感じている。古い家具やどこか人懐っこさのある田舎家風情のせいだろうか。家具や壁がまるで息吹を持っているもののように感じてしまうのだ。それは彼女に安らぎを与えることもあれば、謎や神秘を感じさせることもあった。中でもこの書斎は極めつけだった。ここには無言のお喋りが止めどなく詰まっているように感じる。

 彼女はそのソファーに腰を下ろし、書斎をゆっくりと眺めて見た。棚の所々に木彫りの動物らしきものが置かれている。それらはどれもこれも素朴でどことなくユーモラスで、何故かアルカイックなアニミズムを感じさせる。彼女はオットマンに足を乗せ、体を逸らせ寛ぎのポーズを取ってみた。大叔母はきっとここでこんな風に体を横たえ、考え事に耽ったのかも知れないと思った。

 その時、棚の一角に木彫りの置物と一緒に黒板が置かれているのを見つけた。その黒板には白いチョークで力強くこう書かれていた「それは=なのか、≒なのか、≠なのか」

 

 

「林檎の森」

 

 林檎の木から林檎の実がひとつ、コツンと頭の上に落ちてきて、私は目覚めた。目覚めた私の視線の先に蛇が巻きついたもう一本の林檎の樹が見える。蛇が私に向かって「やあ」と言ったのを聴いた。その樹の陰から男と女の影が現れ、女が林檎の実を手に取り一口ガブリと嚙った。イヴだろうか。イヴはその時、何を味わったのだろう。私には知る由もない。

 私の後ろで何かが地面に落ちた音がした。振り向くと後ろには林檎の森が広がっていた。私が森の中へ入っていくと、しばらくしてまたポツンと地面に林檎の実が落ちる音がした。耳を澄ますと、さらに奥の方でポツンと林檎の実が落ちる音がした。私の好奇心はその音を追いかけ林檎の森の奥深くへ進んで行った。好奇心は人類にとっての宝物であり罠である。気がつくと辺りは暗くなっていた。上を見上げると、生い茂った林檎の葉が陽の光を遮っていた。

 私は目の前にあった林檎の木から、真っ赤に実った林檎の実をもぎ取りガブリと嚙ってみた。その時、頭の中で言葉のカケラの声を聴いた。もう一口ガブリと嚙ると今度は頭の中で知のカケラがキラリと光ったのが見えた。いつの時代も知を愛し、恐れを知らぬ者は光を求め言葉を求め、林檎の世界へ分け入って行く。私はそんな者たちの想いに想いを馳せてみた。

 すると私の小さな頭の中に無数の言葉と、無数の言葉以前の言葉がざわめきとなって流れ込み、それはやがて嵐になった。嵐の風に巻き上げられ、散り散りになった言葉はもはやほとんど聴き取れず、断片的で意味をなさない。私は何とか意味という糸をたぐり寄せようと全身全霊で耳を傾けた。だが聴き取れた言葉はわずかに「万物」と「謎」だけだった。やがて言葉のカケラは星の数を超え、私の意識は大いなるざわめきの渦の中に埋もれていった。

 

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