小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

No.12 彼女はいつものように、村の食料品店で

No.12 彼女はいつものように、村の食料品店で

 

 彼女はいつものように、村の食料品店で一週間分の食料と地元新聞をひとつ買って店を出た。地元新聞では、ペットとして飼われていた迷子のカメレオンが無事見つかったというニュースが一面を飾っていた。泥まみれになったカメレオンを抱えた飼い主の写真が載っている。飼い主の顔は喜びと安堵の感情で酷く崩れていた。彼女は何故か笑えなかった。その下に、今日も世界が混迷に突き進む記事が載っている。

 今、世界は迷子であり、世界は不安な感情で溢れている。不安な感情と怒りの感情が世界の未来の見通しを悪くしている。だが、世界は今に限らず、ずっと迷子であり、ずっと不安を抱えた混沌とともにあったのかも知れない。そんな中、賢い人たちは不安や悲しみという苦痛と厄介を生み出す心をスパッと捨て去り、美しい装いでこの世界をクールに生きているかのように見える。だが、その美しい姿は、人としての美しい姿なのだろうか…。彼女はまだその答えを得ていない。

 

 

「あなたを漂白します」

 

 そのクリニックのビルは、商店街の袋路のどん詰まりにあった。 クリニックの左側に連なる商店街の始まりには、平家建ての小さな雑貨屋があり、カビ臭い、けばけばしい極彩色の品々で溢れている。右側の始まりには、やはり平家建てのペットショップがあり、動物の体臭や糞の匂いがそこら一体に充満している。その商店街には、矮小という言葉が似合いそうなほど小さな店がびっちりと、隙間なく建ち並び、雑多な色と臭いをふんだんに誇示していた。

 そんな満開色溢れ悪臭漂うカビ臭い商店街の中で、その真っ白で消毒臭いクリニックのビルは異様なほど、場違いな感がある。ビルの外壁はボーンチャイナの陶磁器のように艶やかで真っ白だった。真っ白でのっぺりしたビルの一階部分には、外壁と区別がつかないほど真っ白な入り口がある。入り口は縦に細長く切られ、大柄な男ひとりが身体を気持ち斜めにして、ようやく通り抜けられるような幅しかなかった。ビルの間口は二間と少々、高さは三階建て半ぐらいだろう。窓の無いのっぺりしたビルなので、何階建てなのか正確なところは分からない。ちょうど二階の窓の辺りの高さには、白地に白の浮き出し文字で、「クリニック」とだけ書かれたシンプルな看板が掛けられている。入り口には、真っ白な立て看板があり、そこには「あなたを漂白します」と白い文字が彫られていた。

 クリニックの内部は、外壁と同じようにボーンチャイナのような純白の壁で、床も天井も覆われている。窓は無いが、かなり明るい。まるで冷蔵庫の中のようにシンプルで冷ややかだ。一階の天井高はずいぶんと高い。この部屋には、色というものは何ひとつ見当たらない。せいぜいドクターが座る黒い皮張りの椅子ぐらいだ。 いや、黒と白は色ではない。色とは、例えば青い空、碧い海、蒼々とした緑、鮮やかに咲く花々の赤や紫や黄色、褐色の大地、黄金の太陽、深紅の唇、真っ赤な血…。黒と白は光の明暗でしかない。つまりこの部屋は、光の明暗しかない。シンプルだ。実にシンプルだ。そんなシンプルな空間の中では、音だけがよく響いた。その音も、湿っぽさや艶っぽさという余分なものをそぎ落としたかのように乾いた音をしていた。

 クリニックには、地下室がある。地下室も上の階と同じように、すべてが真っ白でかなり明るい。部屋全体が光っているようだ。地下室の中央には、人がひとり横になれるほどの大きさの白いカプセルが一つ、ポツリと置かれている。カプセルの蓋は、開かれている。カプセルから2メートルほど離れたところに、床に垂直に立てられた大きな鏡と、その脇に椅子が一つある。椅子の色は勿論白だ。鏡と向かい合うように、白いタオルを手に持った素足の男が居る。男の肌は、シャワーを浴びた直後のように濡れていた。男は手にしていた白いタオルで首や足を拭くと、タオルを椅子の背に掛け、鏡の中の自分を見つめた。

 その顔は、それなりの富と名声を勝ち得たような自信に満ち、それでいてどこか満たしがたい虚を宿した顔をしている。男の体はまったくといていいほどに贅肉のないスリムな体つきをしている。その白い男は彫像のように背筋を真っ直ぐに伸ばし、直立不動で立っている。白い男はまるで、この極めてシンプルな地下室のために特別に設えた大理石の彫像のようだった。艶のある白くて透明な肌は、造りもののように滑らかで、加齢による自然な澱のようなものが伺えない。この男は果たして小便を、大便をするのだろか。無味無臭なこの白い男は、生命の痕跡すら消してしまおうという魂胆なのか。それほどまでに男は真っさらに漂白されていた。その白さは見る者の理性を、不安にさせるほどだ。

 上の階では、一人の男がドクターの診察を受けていた。その男は落ち着きがなく、顔も体もいっ時もまともな形を保てずにいる。その顔はカメレオンのように如何なる顔にも変化しそうなほどの優柔さがあり、そのくせ何ものにもなりえないような優柔不断さがあった。カメレオン男の服装は驚くほどカラフルだった。さらにそれらはゴルティエのスーツにエルメスのタイ、カルティエの時計にグッチの靴、セリーヌのバックと、実に豪勢だ。その豪勢さゆえか、彼の動きは鎧を身にまとった時のようにぎこちない。男の柔軟性に富んだ優柔不断な顔は、混乱した幾つもの感情が幾重にも重なり、肌は黒いというより、どぶ川の水のように淀みが酷く、耐え難い臭いを放っている。しゃべり方は相手の感情にまとわりつくような、ねっとりしたしゃべり方だった。カメレオン男は今、ドクターの背中と向かい合う形で、白いスツールに腰掛けている。

 ドクターの真っ白な頭髪はボサボサに逆立ち、まるでキノコ雲のように上の方で大きく膨らんでいる。ドクターは、顕微鏡を覗き込みながら、爆発した白髪頭をぼりぼりと掻いている。ドクターの白衣の下からはくたびれた黒いズボンが覗いている。至る所で擦れとほころびが酷く、膝の辺りがかなり照っかている。足元にはつま先の方が上に向かって反り上がり、その曲がった辺りに深いシワが刻み込まれた黒い革靴が見える。だいぶ埃っぽい靴だ。白衣と黒のズボンに、黒の革靴。ドクターの服装には色こそないが、シンプルとは形容しがたい感がある。

 カメレオン男は、どす黒く淀んで、柔軟性に富んだ顔を幾度も歪ませながら、ねっとりした声でドクターに言った「ドクター、漂白できますか」。ドクターは、上半身だけを後ろによじり、鼻にずり落ちた縁なしの丸い眼鏡越しに、上目遣いでカメレオン男を見た。それから眼鏡をかけ直し、男を足の先から頭の天辺までじろりと舐め廻すように見て、血の気のない紫色の平っぺったい唇で嫌みっぽく薄笑いしながら言った「かなり、酷いですな」。ドクターの顔は、加齢の痕が痛々しそうに幾重にも積み重なり、潤いを失った肌が光を奪われ影を宿すように、暗くくすんでいた。その眼は鋭く、血の気のない平ぺったい唇は疑い深そうにへ字を描き、しゃべり方は、どことなく俗っぽい野心が現れていた。カメレオン男とは別の俗っぽさをにじませている。

 息が詰まりそうなほどすべてが純白な空間を背景に、何故かドクターのその俗っぽさは不思議な存在の軽さで輝いていた。

 

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