小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

No.11 田舎の夜道に靴音は響かなかった 

No.11 田舎の夜道に靴音は響かなかった 

 

 田舎の夜道に靴音は響かなかった。彼女は暗くなった外を眺めながらホットココアをすすっている。都会の夜では夜更まで靴音がよく響いていたものだ。特に急ぎ足でカッカッカッと尖った音を立てるヒールの音は遠くまでよく響き渡った。そんなヒールの音には大概不安や心配といった音が混じっている。

 

 

「カッ、カッ、カッ、静寂と闇が支配する街に」

 

 カッ、カッ、カッ、静寂と闇が支配する街に、石畳の道を小走りに急ぐ女の足音が響いた。それはまるで希望という儚い呪文にすがる祈りのように、あるいは、細く長い悲鳴を響かせるかのように、深夜の石畳の街をすり抜けていった。その足音のリズムは時計の針が時を刻むときのように狂いがない。慎重さと根気強さを持つ者の足音だ。女は小脇に太古に焼かれた壺を抱えていた。

 闇から無言の舌がスルスルと伸びて来て女の頬を舐める。女は頬を引き締め不快な舌を追い払う。道の曲がり角では闇の翼が女の行く手を阻む。女は壷を強く抱きしめ闇の翼を睨みつける。闇が狙っているのは女が抱えている壷だ。無言の闇は足音を忍ばせ、姿を隠し、どこからともなくやって来ては女に襲いかかる。だから女は決して気を抜かない。長い夜の闇に立ち向かう女の体力気力は限界が近づいている。それでも女はリズムを崩さず闇との戦いに必死に耐えている。

 その頃、ひとりの僧が漆黒の暗闇の中、黙々と坐していた。彼の背後には黙り通した幾年もの歳月が果てしなく連なっている。彼は耳を澄まし、闇の中に潜む無言のあらゆる音を追いかけている。地球の呼吸を担っていた樹々が切り倒される時、その内側で響き渡る叫び、地球の果てしない汚れの浄化を担わされた海が挙げる悲鳴、地球の冷静さを担っている強固で大いなる意志である極地の硬い氷の山、その氷山の氷の溶け落ちていく無念の嘆き、全てを切り刻む言葉が人々のつながりを容赦無く断ち切っていく音。世界の闇は暗さを増しているのを感じる。僧の耳は絶望が囁きはじめる気配を聴き取る。僧はそんな気配を黙ってやり過ごし、さらに耳を澄ましていると眉間の奥で微かな何か、重要な何かを聴き取った。僧はすべてのエネルギーを眉間に注ぎ、それを観た。それは、カラカラに乾いた砂漠の大地から、白い一頭の、若い蝶が飛び立った音だった。

 その時、石畳の街を小走りに急いでいた女が立ち止まり、小脇に抱えていた壺を胸の前で抱え直すと、壺に顔を近づけ耳を澄ませた。その壺には、”すべての贈り物”を意味する”パン・ドーラ”の名がついている。神々からの祝福が詰まっていると云われたその壺には、今、希望だけが残っている。

 

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