小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

No.14 その日は何故か朝早く目が覚めた

No.14 その日は何故か朝早く目が覚めた 

 

 その日は何故か朝早く目が覚めた。どうした訳だかいつになく清々しい気分だ。その理由に心当たりが見つからない。それでも彼女はその気分に乗って、早朝の散歩に出かけることにした。ストールを羽織って玄関を出ると、外は少し靄っていた。

 足取りは踊るように軽かった。何かがいつもと違うと感じた。でもそれは懐かしい感覚でもあった。その懐かしい感覚を全身で味わいながら夢遊病者のようにゆったりと歩いて行くと、道端の花がいつも以上に愛想良く語りかけてくる。足元の砂利もいつも以上に楽しげで、弾むような音で私の歩きを伴走する。世界を感じる感覚のセンサーが日常の重さを脱ぎ捨て、超自然の感覚で動きはじめたのだろうか。私は今、あの懐かしいセンス・オブ・ワンダーの魔法の掛かった世界にいる。

 外は相変わらず靄が掛かっている。靄の掛かった世界で、心の見通しはとても良い。今日は間違いなく良い日だ。この気分の変化はいったい何がきっかけだったのだろうか。でも人にはそんなことはよくあることだ。人の気分はあまりに気まぐれなのだから。そう思うと彼女は心から願った。こんな贅沢な日は、そんな気分と心ゆくまで戯れていたい。

 

 

「突然の春の訪れに」

 

 目の前に真っ白な道がある。その道はどうやら砂利道のようだ。空気は乾いている。砂利は磨き抜かれた玉のような綺麗な丸い形をなし、粒の大きさも揃っている。その砂利はまだ一度も人に踏まれたことがないような真っさらな美しさで白く輝いていた。道幅は人がふたり手をつないでのんびりと歩くには丁度いいと思える幅だ。その道は真っ直ぐに何処までも延びていて、遠くのほうで消え入るように空と交わっている。空も真っ白だ。すべてが真っ白だ。そして静寂だ。

 目の前の光景は絵空ごとのように美しく、なのに私にとってどこか懐かしい。そんな光景を私は飽きることなく見ている。とにかく気持が好い。私はついにここへ還って来たのだ。そんな想いが湧いてくる。私は長いこと再びこの世界に戻ってくることを望んでいた。それは何故か泣きたいほど確かなことだった。胸が痛い。凛とした痛さだ。そう感じた瞬間、胸の痛みは凛とした痛みから、切なさに変わった。いったい何が切ないのだろうか。よく分からない。でも、何かを惜しむような、懐かしむような切なさだ。

 そのうち真っ白だった空に青味が差してきた。ついで白い玉砂利の下の大地からは砂利を押し退けるように若々しい緑が顔を出し、あれよあれよと云う間に白い砂利道は柔らかな緑に覆われてしまった。さらに大地からは無数の虫が這い出し、その脇では天と地を支える大黒柱のように太くて黒い幹が天に向かって伸び、その先には芽吹いたばかりの桜の蕾をつけた枝が、青い空に翼を広げるように張り出していた。

 私は突然の春の訪れに違和感を感じながらも、まだ若い緑に覆われた砂利道を歩き出した。砂利は私の足下でジャリジャリという音が生み出している。一歩一歩、ジャリジャリと耳に響く。他に音は聴こえない。しばらく行くと、電子的な雑音が耳に入ってきた。まるで、壊れた工場のサイレンのような単調で耳障りな音だ。壊れたサイレンのような音は、かなり長く響いた。その後、耳障りな一本調子を止め、今度は何やらが鳴るようないななくような音を出している。不快だ。その音は、私が一歩々々歩く度に近づいてくる。

 砂利道の右手には緑の生け垣がずっと続いている。垣根越しに男の後ろ姿が見える。頭には白髪がまじり、猫背になった背中からは張りの無くなった筋肉と余分な脂肪が感じられる。男はエレキギターを抱えている。ギターからはチョークで黒板を引っ掻くような音、子どもが棒切れでトタンを擦るような音が響いている。不快だ。

 その不快感には現代音楽のような高尚な響きはカケラもない。人を不快にするだけに発せられた音のように、ただただ不快だ。男はそんな音の響きの中に浸りきっている。まるで子どもが不快な音を夢中になって楽しんでいように。飽きることなく。不快な音は彼の存在そのもののように思えた。この男の日常はこんな音に彩られているのだろうか。彼の人生はずっとこんな音の中にあったのだろうか。

 男の後ろを垣根越しに通り過ぎ、歩き進んだ。不快な音はまだ私を追っている。しばらく行くと左手に小さな橋が現れた。それを渡ると私はまた左に折れた。私は川に沿って進んだ。その川の向こうにはさっき通り過ぎた生け垣の道が見える。男が発する不快な音は、川を渡って私を執拗に追ってくる。この道で不快な音から逃れるすべは当分の間はなさそうだ。だが耳を塞いで歩くのは不自由さを感じる。私はどうしたものかと思った。

 考えた。町中で突然の雨に降られるのは不快だ。道路を走り去る車に泥を跳ね飛ばされるのはもっと不快だ。けれどいっそ、身を隠す場所のない原っぱで、ドシャ降りの雨に全身すっぽり濡れてしまったなら…、そんな時はきっと両手を広げて天を仰いで笑ってみせるだろう。泥んこの中に全身どっぷり浸かってしまえば…、きっと腹の底から笑いが込み上げる。私は不快な音にどっぷり浸かってみることにした。私の腹の中から、開き直りの開放感が湧き出てきた。やがて不快な音は遠くに去っていった。

 犬の吠える声がした。前方から子どもを抱えた女がやってきた。女は左手でまるまる太った赤児を抱え、右手で落ち着きなく動き回るもうひとりの子供の手を引いていた。足下には犬がまとわりついている。母と子は、砂利道から外れた草むらを歩いている。その母の姿は逞しい。女の繊細さや可憐さは微塵も感じない。とにかく逞しい。大地を踏みしめる肉の塊のような頑丈な足、子どもを抱きかかえる太い腕、何でも食べ何でも消化してきたどん欲な胃袋、脂肪の塊のような図々しい腹。彼女の存在はブルドーザーのように逞しい。脂ぎった逞しい身体は陽の光を照り返し、輝いている。彼女は美しかった。

 しばらく行くと、満開の桜の枝が砂利道に大きく張出していた。桜の枝は砂利道の上空をすっぽり覆い、桜のトンネルをつくっていた。私は満開の桜のトンネルに入っていった。辺りにはまた静けさと清々しさが戻った。桜のトンネルの向こうから、痩せた老紳士が砂利道を歩いてくる。彼はゆっくりとした足どりで私の脇を通り過ぎて行いった。すれ違いざまに思った。彼は自分の人生に満足しているのだろうか。たった今すれ違った彼の表情を思い出すことができない。彼の通り過ぎた道には、微かに甘い香りがする。私は振り返りたかったが振り返らなかった。

 うぐいすが鳴いた。桜の枝から芋虫が降りてきた。風の柔らかな音がする。風の音に混じって水の音がする。左手に流れる川の音だ。川には風に乗った桜の花びらが舞い散り、ところどころで塊りをつくっている。ひと塊りの桜の花びらはまるで浮島のようだ。薄紅色の浮島はゆっくりと流れていく。そのゆっくりとした川の流れる音を聴いていた。と、不意に川に吸い込まれそうになった。おやっ、と思ったがなおも川の流れを聴いていると、川の流れが恋しく思えてきた。気がつくと私は思わず川に飛び込んでいた。

 川の中で私は魚になった気分だった。私は泣きたくなった。泣いた。私の頬をつたうものは涙なのか、川の水なのか…。確認のしようもなかったが私は大量の涙を流したと思う。まるで何千年も泣いていなかったかのように思えた。私はそのまま流されていった。流されながらただ泣いた。とにかく泣きたかった。泣くのに理由などいらなかった。涙の涸れるまで泣き続けて眠った。

 

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