小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

No.3 書斎に残された大叔母の大量の本を眺めている

No.3 書斎に残された大叔母の大量の本を眺めている 

 

 書斎に残された大叔母の大量の本を眺めている。この本を大叔母は全て読み終えたのだろうか。こんな田舎にこもり、静かに本と対話する日々を過ごしていたのだろうか。そう思うと本には大叔母の息吹が宿っているようで、手を触れることが躊躇われた。子どもの頃の記憶に残っている大叔母は、老いた妖精であり、不思議な世界にいる魔女だった。本棚から目を離すと、本棚に挟まれるように置かれた小さなライティングデスクの隅に一冊の本がひっそりと立て掛けられていたのに気づく。

 彼女はライティングデスクの前に座り、そっと本を手に取って見た。それほど厚くない本だ。これは大叔母が亡くなる前に読んでいた本なのだろうか、それともお守りのように手元に置いていた本なのだろうか。その本には付箋が一つ貼ってある。慎重にそのページを開いて見ると線が引かれた箇所があり、そこには「わずかな思考は人を生から遠ざけるが、多くの思考は人を生へと連れ戻す」と書かれていた。

 大叔母は何を思ってここに線を引いたのだろう。幼い頃に数えるほどしか会わなかった大叔母の思いなど、彼女に分かる筈もなかった。彼女はそれ以上の詮索を諦め顔をあげると、小さな丸窓から森が見えた。森は黄金色に輝く夕陽に照らされ、神々しく輝いていた。

 

 

「道端の老人は言った」

 

道端の老人が空を見上げて言った。

東の国の神は「空」と説いた。

西の国の神は「空々」と嘆いた。

西の国の神が「空々」と嘆くと世界に虚無が生じた。

東の国の神が虚無に向かって「空」と説くとそこから豊饒の世界が現れた。

 

 道端の老人は、細く長く延びる薄暗い路地の先を眺めながら言う。人は死んだらどうなるのだろう、死の先に何があるのだろう…。人はどうしてそんなことに悩むのだろうかと。

 道端の老人はそして言った。もし、死の先に何か世界があれば、そこから何かをはじめればいい。何もないのなら、神の懐に抱かれ空っぽの安眠をむさぼればいい。それ以上、何を考えることがあるというのだろう。

 命を終えた草花が、朽ちて土となって大地に還り、やがてそこから新しい命が生み出されるように、魂はきっと天に還り、漆黒の宇宙と溶け合い、空っぽの安眠を貪り、やがて再びどこかに生まれ出る。だとしたら、人間の問題は死後の世界じゃない。

 

 あるとき、道端の老人は、不安げな私の顔を見て言った。不快な世間を平然と歩いて行くには、分厚い皮膚で覆われた象の足を持つといい。分厚い皮膚で覆われた象の足、鈍さで武装した象の足は、大地から湧いてくる不快な虫どもの戯事をものともせず、悠然と大地を歩いていけるだろう。

 道端の老人は続けて言う。不条理という魔物が、あらがう事のできないほどの大きな力となり、ついには大河の流れとなって時代を翻弄しようとするとき、濁流に流され、心が絶望の河底に沈んでしまいそうなとき、ずっしり重い腹の据わった頑丈な象の足を持つといい。濁流の流れに耐え、絶望に耐え、踏ん張りつづけられるだろう。

 道端の老人は、目を細め、遥か遠くを見る目で言った。繊細な感受性はわずかな風のゆらぎでも心を揺らす。嵐の荒れ狂う日には、その軽やかな感受性は天高く巻き上げられ、あらゆる方向に翻弄され、身も心も散りぢりになるだろう。そんなときは波止場の係船柱のような不動の象の足を持つといい。嵐に翻弄される繊細な心を地上につなぎ留めてくれるだろう。

 

 あるとき、道端の老人は、沈んだ私の顔を見て言った。繊細な感受性とは厄介なものだ。繊細な機器が不具合を起こしやすいように、繊細な感受性はガラス細工のように壊れやすく、ちょっとした風でも水鳥の羽毛のように頼りなげにふわふわと舞い上がる。研ぎ澄まされた繊細な感受性は、世界の背後で蠢く残忍さを、人間の中の救い難い愚かさを、真理の底に背筋が凍るような虚無を見てしまうこともある。そして時に繊細な感受性は、象が足裏で遥か遠くのモノ音を聞き取ってしまうように、遠い先の未来の足音を聴き取ってしまうこともある。そんな時は誰にも聴こえない未来の足音を聴きながら、たった独り部屋の片隅で膝を固く抱きしめることになる。

 それでも感受性は大事にしなさい。研ぎ澄まされた繊細な感受性は、宇宙が奏でる真に美しい天球の音楽を聴くこともできる。小さな野の花の中に大宇宙の偉大さを見ることもできる。川の流れの先が滝壺に通じていることを聴き知ることもできる。あるいは風の便りで春が近いことを嗅ぎ取ることもできる。そして何より素晴らしいことは、真の魂と共にあることができるということだ。

 

 あるとき、道端の老人は、傍らで彼を見上げる私を抱き寄せて言った。そんなに心配しなくても大丈夫だ。世間の戯言や瞞しは、所詮戯言であり瞞しだ。そんなものに構う必要はない。上手に逃げる道を探してみるといい。もしどうしても逃げられない時は、大切な心を自分の世界に避難させてあげればいい。それでもうまく行かない時は、敵の正体を見破ることだ。正体を見破られた戯言や瞞しは、もう相手を惑わすことができなくなる。

 いいかい、繊細な感受性を持つ者にとっての最強の武器は、鋭い感性だ。敵の正体を射抜くような鋭い感性の目だ。怯える感受性を奮い立たせて、感性の目を知恵の火で鍛え直し、敵の正体を射抜くような鋭い知恵の剣に仕立てるといい。あるいは、その子どものような透明な感性の目で全宇宙を見通すような透明な知恵を持つことだ。あるいは、その広く深い感性の目で万物を包み込むような太母の知恵を持つことだ。

 そういう知恵を育み、そういう知恵の織物でガラス細工のような壊れやすい心を包み込むこといい。そうして真の魂の声を聴くことができる繊細な感受性をむやみに殺すことなく錆びつかせることなく、逞しく生きる道を模索するといい。そうすればたとえガラス細工のように脆い繊細な感受性を持っていても、逞しく生きられる道が見つかるだろう。幾重もの知恵の織物で包み込まれた感受性は案外丈夫なものだ。ただし丈夫な知恵の織物を織るのには時間がかかる。それには知恵を育む努力を怠らないことだ。

 

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No.2 村人はまだ彼女によそよそしく

No.2 村人はまだ彼女によそよそしく

 

 村人はまだ彼女によそよそしく、彼女もまた村人によそよそしかった。その建物を見かけたのは村の食料品店へ買い物に出かけた日の帰り道だった。遠目に見たその建物はエキゾチックな雰囲気を持っていた。見たことのない不思議な建物に思えたが、何故か一瞬、その建物は彼女に懐かしさの感情を起こさせた。

 彼女はその不思議な建物をやり過ごし、歩きながら今後の生活のあり方についてつらつらと考えた。急速に人間らしさを失っていく都会に不安を感じ、はっきりした目的や計画もなく田舎暮らしをはじめた彼女だが、先の生活を考えると空白の不安を感じるのだった。

 家に戻ると未整理だった段ボール箱を開け、過去十数冊分の日記を二階の寝室のタンスの一番下の引き出しに仕舞った。人は誰しも、たとえ年齢や状況は様々とはいえ、生きることが困難に思える時期を膝を抱えるようにして過ごした経験を持っているものだ。日記には大概そんな日々の記録が残っている。

 

 

「扉」

 

 砂漠の大地を、ボロ雑巾のように疲れ切った男が歩いている。彼は着ていたシャツを頭の上まで引き上げ、灼熱の太陽から身を守ろうとしている。しかしその甲斐もなく、陽に焼かれた彼の顔は痛々しく、肩は力なく落ち、よろける足でよたよたと歩いている。一歩一歩、年老いた亀のように。そして、やがて力尽き無数の砂の大地に崩れ落ちた。灼熱の太陽も一歩一歩西へ西へと亀のような歩みを進め、砂の大地へ崩れ落ちると辺りは急速に冷えていった。男はサン・テグジュペリの著書『人間の大地』に書かれていたことを思い出し、最後の力を振り絞り、砂を掘ってその中に自身の体を首まで埋めた。砂漠に不時着したサン・テグジュペリの体験をもとに書かれた『人間の大地』で、彼は、「寒さの中で果てるのはつらい。…ぼくは、砂の中に穴を掘って、その中に寝て、砂で、自分を包んでしまう」と語っていた。

 体の位置が落ち着くと、彼は砂の上に突き出した頭を砂に預け天を仰いだ。満天の星が彼の顔の上に覆いかぶさるように広がっていた。砂漠の星空は稀なる美しさだった。彼はこの数カ月、夜空を眺める余裕など全くなかった。彼は追われる身だったからだ。

 数カ月前、故郷の町では近隣の町の紛争に巻き込まれようとしていた。紛争はある小さな町の些細ないざこざからはじまり、やがて周りに集まった野次馬が両陣営に分かれてそれぞれの応援をはじめた。両陣営は仲間の数を競いはじめ、宣伝合戦が盛んに行われ、リクルートが盛んになり、やがて徐々に大きな紛争へと成長していった。そうなると、もはや紛争を望まない者、紛争を望まない町までが紛争に巻き込まれていく。

 彼らは兵士を、技術者を、科学者を、さらにパトロンまでも競ってリクルートする。彼の町でも強引なリクルートが頻繁に行われていた。紛争の災難に巻き込まれる人々は日増しに増えていく。そしてついに紛争の火の粉が彼の上にも降りかかった。彼は若くて優秀な科学者だった。不運なことに科学者として優秀な彼は両陣営から望まれていた。彼はリクルートに来た男たちにノーを突きつけ、この無意味な戦いに抗議した。だが、彼らは敵にも味方にもつかない彼という存在を許さなかった。彼らには敵か味方かを誰彼なく決めたがる悪い癖がある。従って味方でない彼は敵と見なされ、両陣営から追われる身となったのだ。

 砂漠の夜は寒い、その夜を砂の中で無事やり過ごした彼は朝日が上りきらないうち、砂から這い上がり、歩きはじめた。急がねば、昼には再び灼熱の太陽がやって来る。彼は歩きながらいろいろな想いが湧いてきた。この先自分は再び故郷に帰れるのか、故郷は懐かしい街並みを残したまま自分を迎え入れてくれるだろうか、昔の美しい暮らしに戻れるだろうか、懐かしい人々にまた会えるだろうか。あの戦いはいったい何のための、誰のための戦いなのか。紛争は何故か大きくなるにつれ大義がすっかり変貌してしまう。何故だ。大きくなるにつれ本当は何のための誰のための戦いだったか誰にも分からなくなってしまう。それは何故だ。人殺しの紛争に人間としての大義なんてありゃしない。そんなの皆んなわかってるじゃないか、なのに何故人々はいともたやすく紛争のまつりごとに躍らされてしまうのか、殺りく以外の手はないのか、他に手はないかと十分な検討もせずに。

 彼は若かった。若さには腐った世界の中でも理想をギュッと握りしめる強さがある。しかし、そんな若い肉体も砂漠の灼熱の太陽には敵わなかった。再び砂の大地に倒れた彼は死をも覚悟した。俺はここでこのまま死んでしまうのか。無力感が彼を襲う。彼はその無力感に抵抗せず、大地に抱かれ心を解放した。獣として生きるより、人間として生きることを選択した結果がこれだ。それでもこの選択は間違っていなかった。これでいいのだ。最後まで人間として死ねる。そう呟いた時、ふっと頭に反対の言葉が浮かんだ。最後まで人間として生きる…。だが、最後まで人間として、人間らしく生きるとはどういうことか、それは難しい問題だ。

 彼は再び立ち上がり前を向いた。その時、彼の目の前に、まるで宮殿のような壮麗な屋敷がゆらゆらと映っていた。蜃気楼だろうか…。それが蜃気楼でも今の彼にとっては構わなかった。彼はその屋敷に向かって歩き出した。そして屋敷の扉を開けると、そこはに玄関ホールではなく、談話室のような部屋が現れた。

 彼は違和感を感じながらもとりあえず部屋を見回すと、右手には立派な暖炉、床には毛足が長く色鮮やかで複雑な模様が美しい絨毯が敷かれ、部屋の中央にはいかにも高そうなテーブルとソファーがあり、周囲の調度品も洗練されたものばかりだった。暖炉には火はなく、部屋には人気がなく、部屋の四隅には何故か扉がひとつづつあった。彼は全ての扉を開けようとしたがどの扉も開かなかった。不安を感じた彼は、今しがた自分が入ってきた扉に駆け寄り、開けようとしたがその扉も開かなかった。不安が募る中、砂漠で焼けついた喉の痛みは激しさを増した。彼は水を求め部屋中を探しまわったが、水も食べ物も何処にも見つからなかった。

 だが最後まで人間として生きる覚悟をした彼は、せめて身なりを整えようと全身の砂を払い落としにかかった。頭の先から足の先まで丹念に砂を払ったものの、シャツの汚れは酷く、痛々しい痕がくっきりと刻まれていた。その時、彼の入って来た扉と対角線上にある扉が開いた。

 

 ズブズブ埋もれて行く感覚が永遠に続くかのように思われた。抗うことすら放棄したくなる生温い温もりの中で彼女はただ天を仰いでいた。真綿で首を絞められるとはこんな状況を言うのだろうか。精神の眠りを誘うこの感覚は、いったいいつから始まったのか。気がつけば陽はとうに暮れ、闇夜が迫っている。彼女は思う、闇の奥から獣は這い出してくるだろうか、恐ろしさはやってくるだろうか。それとももはやそれすら感じることもなく闇の獣に食べられてしまうのか。やがて彼女は深みにはまっていくネガティブな思考を拒否し、起き上がった。

 苦悩がないという苦悩、それが彼女の苦悩だった。それは年々重さを増していた。彼女の家には心配性の夫と、家事一切と庭仕事をする使用人がいる。彼女は子どものころから虚弱体質で、大事に育てられてきた。そんな彼女を夫も大事に扱う。子どもがいなかった彼女は、病弱な妻という役割以外、生活の苦労からも労働の苦労からも解放されていた。

 そんな彼女の一日は、朝のゆっくりとした食事と読書からはじまる。その後、天気の良い日には庭を散策したり、テラスで庭を眺めながらぼんやり過ごすことが多い。午後は知り合いとの昼食会や気ままなショッピングに出かけたり、気晴らしに流行りの芝居や映画、オペラや美術鑑賞、そしてスポーツ観戦を楽しんだ。とはいっても、何百回と行ってきたそんな気晴らしは、彼女にとってもはや生活の中の清涼剤とはならなかった。そして夜は無口な夫と長く退屈な時間を過ごした。

 世間から見れば彼女は何不自由ない暮らしをする恵まれた人間だ。だが彼女の中で、苦悩のない日々から、苦悩がないという苦悩が沸々と湧き上がってくる。ぬるま湯の日々の中で、地下深くに潜む意識は何かを恐れている。彼女の生活にはもはや感動も恐怖もなく、何をやっても、ただカタログを眺めているだけのような薄っぺらな時間だけが通り過ぎて行く。人は安心安全だけでは生きられない、それはいったいどうしてなのか。目標のない日々や、意味がないと感じる人生が人の精神をおかしくするのは何故だろうか。彼女はそんな思いに囚われていく自分を持て余している。

 その日は天気の良い日だった。午後は友人宅での昼食会に招かれている。親しい女友達が集まるいわゆる女子会だ。今彼女たちの間で噂になっているサンドイッチを手土産に買って行くと約束していた。その店は女子が喜びそうなひと口サイズのサンドイッチの店で、種類が豊富で、巷で大評判の店だ。

 目当ての店は庶民的な町の中心部のごみごみとした場所にあった。それでも小洒落た店構えのお陰で店は直ぐに見つけることができた。車を止め、中に入ると食品ケースにサンドイッチの具材として調理された惣菜がずらりと並んでいた。彼女は迷わず一番高いものから順に10品とシェフのおすすめを10品、最後にデザート用にフルーツのサンドイッチを10品注文した。レジに進むと可愛らしい動物のラベルがついたミネラルウォーターが目についた。すると店員がこれはおまけですと言って、紙袋に小さなペットボトルを2本入れてくれた。

 紙袋を下げ店を出ると、店の向かいの道端にしゃがみ込むホームレスの姿が見えた。彼女のような暮らしをしている人間にとって、ホームレスはニュースで見るぐらいの存在だ。彼女にとって遠い存在であるホームレスに対して、頭では同情できても実感の伴った同情の感情は起こりにくかった。そんなホームレスを一瞥し、車に乗り込もうとした時、ホームレスと視線が合った。その目は何処までも暗く、その暗い目には感情の痕跡がなかった。

 彼女はそのまま車に乗り込むと友人宅に向かって走り出したが、車を運転しながらホームレスの暗い目が気になってしょうがなかった。そのうち彼の感情のない目と、自分の苦悩のない苦悩の元凶が、何処か似通ったものに思えてきた。考えてみれば彼女の苦悩は成長の機会がない苦悩でもある。そしてホームレスの暗い目は、人としての成長の機会を奪われた苦悩か、成長を放棄した目だ。それに気づいた彼女はショックを受けた。

 ショックを振り払おうと車の運転に集中する。するとさっきまで天気だった空が急に暗くなり、嵐がやって来た。嵐は急速に悪化し、視界が驚くほど悪くなった。彼女は慎重にと思いながらも意識の深いところからやって来る不安から逃れたくて先を急いだ。カーナビを頼りに走っているものの、視界の悪さで今何処を走っているのか、道はこれで確かなのかと心許ない思いだった。そんな中、急に視界が明るくなり見通しが良くなった。その時、目の前に見えてきた道に、行く手を遮るものは何も見えなかった。彼女は思わずアクセルを踏み込んだ。次の瞬間、目の前に突然大きな建物が現れ、彼女は慌ててブレーキを踏み込んだ。

 車は激突は免れたものの、彼女の心臓のショックはしばらく治まらず、彼女は長いことハンドルに顔を埋めたまま動けずにいた。ようやく動悸が治まり、改めて目の前を見ると目の前には何もなかった。あたりは静かだった。彼女は訝しながら窓越しに辺りを見回すが、白い空間以外何も見えなかった。詳しく状況確認をしようと車を降りると、外には霧のようなものが立ち込めていた。建物があったと思った場所、車の前方へとまわり込んでみると、なんとそこは崖だった。彼女は思わず後ずさった。

 辺りを注意深く見回すが、それ以上は霧でよく見えない。車に戻りカーナビを確認するが、カーナビは機能していなかった。どうやら電波が入らないところらしい。携帯を確認するが、やはり電波が届いていない。ここはいったい何処なのか。再び車から出ると辺りの視界は先ほどより幾分か良くなっていた。改めて辺りを見まわすと近くに森らしきものが見えた。彼女はとりあえず今来た道を戻ろうと思い、車のエンジンをかけようとしたがエンジンはかからなかった。彼女は困惑しながらも、今来た道を少し歩いて戻ってみることにした。するとそこにあの建物が見えた。これはいったいどういうことなのだろうか。

 その建物はエキゾチックな雰囲気を醸しながらも趣味のいい立派な屋敷だった。私はこの屋敷の庭に迷い込んだのだろうか。彼女はとにかくこの屋敷をたずね、状況を把握しようと思った。再び車に戻り、貴重品の入ったバックを掴んだ時、サンドイッチの入った紙袋に気づき、紙袋も一緒に持ち出した。屋敷への訪問の挨拶代わりにでもなればと思ったからだ。屋敷の玄関に呼び鈴は見当たらず、仕方なく扉を叩いてしばらく待ったが応答はなかった。そこで試しに扉に手を掛けると扉はすんなりと開いた。そこ現れたのは玄関ホールではなく、小さな客間のような部屋だった。彼女は戸惑いながら部屋を見回すと、そこに汚れたシャツを着た一人の若い男がいた。

 男は驚いた顔で彼女を見た。「君は誰だ、ここの人か、やっと来てくれたのか」男はいくつもの質問を彼女に浴びせた。その声は擦れかすれで苦しそうだった。彼女が戸惑っていると、男はどうやら勘違いのようだと気づき口をつぐんだ。

 「あのー、あなたはどなたですか、ここの方ではないのですか、ここは何処ですか」今度は彼女が男に質問を浴びせた。それでどうやら男はある種の状況を飲み込んだようだった。その時、男は何かに気付いて、彼女の入ってきた扉に向かって急ぎ足で進むと、扉の取手を掴んで開けようとした。しかし扉は開かなかった。

 彼女は何が起こったか分からず、男を見つめると、男は部屋の四隅にある扉を指して、この部屋の扉を開けられるかと彼女に聞いた。彼女は何を言っているのか分からないまま扉を開けようとしたが、どの扉も開かなかった。いったい何が起こっているのか、彼女は不安になった。男は扉を開けることを諦めソファーに座り込むと苦しそうに咳き込んだ。彼女は紙袋の中にミネラルウォータが入っていることに気づき、彼に差し出した。彼は水の入ったペットボトルを見ると目を輝かせ、ゴクゴクと喉を鳴らして貪った。

 水で喉が潤った彼は、ここへ来た経緯を話し出した。彼女は砂漠からここへやって来たという彼の話に違和感を覚えながらも否定はせず黙って聞き、次いで自分がここへやって来た経緯を淡々と説明した。何かが可笑しい、互いにそう思いながらそれ以上は語らなかった。沈黙が部屋を支配した時、彼女は思い出したように紙袋を掴むと、袋の中のサンドイッチを黙ってテーブルの上に並べた。

 

 「父危篤」の一報を受け取った彼は夕暮れの汽車に乗り、窓に映る自分の顔を眺めていた。その顔は中年のくたびれた顔をしていた。彼が最後に見た父の顔はちょうどこんな顔をしていたように思う。彼の父は厳格で、家庭を顧みず仕事に明け暮れる日々を送っていた人だった。彼はそんな父を軽蔑し、憎んでいた。彼は高校を卒業すると父の家を出た。それ以来家には帰らず父にも会っていない。彼は故郷から離れた大学で学位をとり、社会に出ると自分の価値を証明するため猛烈に仕事をした。その努力が実り彼はそれなりの成功を収めた。

 成功は奇跡的な運にでも恵まれない限り、本人の弛まぬ努力抜きには成し得ないものだ。巷には成功のためのハウツー本が溢れているが、たとえどんなに有名な学者やコーチが書いた本であっても、それを鵜呑みにして実践してみても、誰もがその通り成功するわけではない。成功は失敗から学びながら一つ一つ自分なりに成功への道を積み上げて行くしかないのだ。猿真似では本当の意味での成功はない。彼はそういう思いで日々努力を重ね成功を勝ち取った。

 しかし成功のゲームは勝ち取っただけでは終わらない。成功を維持し続けるために新たな努力が必要になる。新たな成功が求められ、新たな欲望が生まれ、新たな不安が生み出され、成功者は常に外側からも内側から追い立てられることになる。気がつけば彼もまた父と同じように、仕事を成功させた後も家庭生活を顧みることもなくさらに仕事に邁進する日々を送っていた。そんな彼を、反抗期にある息子は軽蔑するような目で見るようになっていた。世間ではよくある話である。

 息子は問題ばかりを起こし、度々補導された。ここでもハウツー本は役に立たなかった。教科書通りのことを試してみても効果はほとんどないばかりか悪化することがしばしばだった。彼のぎこちない対応、教科書通りの対応は、完全に息子に見透かされていた。世間ではよくある話というのは、ありふれた出来事であるにも関わらず、自分ごととなると対処に苦慮するものである。父危篤の一報を受け取ったのはそんな時だった。

 汽車の窓に映し出された自分の顔は、あの頃の父にそっくりだと思った。自分が反抗期だった頃、彼は父のことを仕事に明け暮れる身勝手な人間だと思っていた。さらに出世の階段を登りつつある父の険しい目は、自分を邪魔者のように見ているとさえ思えた。自分は愛されていない、愛される価値や資格がない人間なのか、その劣等感から逃れるため彼は猛烈に働きそれなりの成功を収めたのだ。今の自分はあの頃の父にそっくりなのだろうか。あの頃、自分は父を憎み、軽蔑し、父の前から立ち去った。後に母も離婚を突きつけ父の元を去った。老いた父は今、田舎の町で独り暮らしをしている。

 彼の中で、ふたつの意識がぶつかり合っている。仕事で成功を収めるため努力したことに何の罪があったというのか、父として、夫として安定したいい暮らしをもたらすために努力したことに、家族から非難されるのは心外としか言いようがない。何故、愛がないと責められるのか。

 一方、息子だった頃の自分は、そんな父に不満だったはずだ。だが、息子だった頃、自分はまだ社会を知らなかった。社会はそんなに甘くないのだ。甘くない、そう、人を蹴落とす輩が大勢いる。社会、世間とはそういうところだ、女子どもの理想など通用しない。社会は甘くない、それを教えてやるべきだろうか。いや、そんなことを言えば尚さら軽蔑されるだろう。女や子どもは、思いやりや理想を求める。あんなに憎んでいた父が今は哀れに思える。老いて独り人暮らしをする父は何を間違ったのか、何が正解だったのか、仕事と家庭の二兎は追えないのか。

 いや、仕事と家庭の両方を手にした人間もいる。彼らはどうやったのか、自分は子どもの頃、いったい何に不満だったのか、どうしてあんなにも父を憎んだのか。父を憎んでいたその時の自分を思うと、生半可な気持ちでは自分の息子との絆は取り戻せないことに気づいた。とにかく、大事なところがずれている、大事な何かが抜け落ちている。それを埋めるのは理屈じゃない…。何故だかその時、彼は直感的にそう理解した。

 汽車が駅に着くと、彼はホームの端でタバコを吸った。空気はだいぶ冷え込んできていた。コートの襟を立て、父の居る病院へ歩き出した。田舎道で携帯のマップはうまく機能しなかった。幸い老人がひとり、こっちへ向かって歩いて来たので病院への道を聞いた。すると、そこの角を曲がって直ぐだ、正面に見えるよと教えてくれた。彼は教えられた通り直ぐそこの角を曲るとそこに現れたのは田舎の病院らしくない建物だった。東洋的な神秘さと西洋的な壮麗さを兼ね備えたような立派な建物は彼を威圧するでもなく、ただ静かに佇んでいた。彼もまたそれに応えるように静かに扉を押した。中に入ると待合室にしては趣味の良い部屋が現れ、そこには男と女が一人ずつソファーに並んで座っていた。

 ふたりは同時に彼を見て、奇妙な表情をした。女は寒そうに身体を縮めながらこちらを見ている。彼は戸惑いながらも「父の見舞いに来たのですが、受付は何処ですか」と尋ねた。すると品の良さそうな女が「それはお気の毒です。残念なことですが、ここは恐らくあなたがお探しの建物ではないと思います」と震える声で答えた。彼は建物を間違えたかと思い「失敬」と言って入って来た扉から外に出ようとしたが扉は開かなかった。

 訝る彼に、ふたりは丁寧にこの状況を説明してくれた。説明を聞いた彼は部屋の四つの扉全てを力強く押したり引いたりしたが、どれ一つとして開かなかった。彼は諦めポケットからタバコとライターを取り出し「よろしいですか」と許しを乞うた。女が「ええ、どうぞ」と言うと、今度は汚れたシャツを着た若い男が「そのライターを貸してくれませんか」と言った。男はテーブルの上にあった紙袋を丸め、暖炉に放り込みライターで火を付けた。

 やがて暖炉の薪はパチパチいいながら赤い炎を上げ始めた。それを見ていた彼は炎が大きく燃え上がるのをしばらく眺めていたが、隣で寒さに震える彼女に気づいて、自分のコートを掛けてやった。その時、シャツ姿の若い男がソファーにあったクッションを抱えると、それを暖炉の前の床に置いた。それが合図になり、三人は暖炉の前に腰を降ろし並んで暖をとった。彼は暖炉の中で明々と燃える炎を眺めながら、遠い昔、幼い頃、父とこうして暖炉の前で明々と燃える炎を眺めたことがあったのを思い出していた。それはクリスマスの夜だったように思う。

 彼は自分の中にこんな古い記憶が、こんなに鮮明にも浮かび上がって来たことに戸惑いながらも、身体の奥深くから、懐かしさと切なさが入り混じった複雑な感覚が湧き上がってくることに抵抗しなかった。あの時、父は何かを話しただろうか?覚えていない。覚えているのはただ暖炉の火を眺めながら長い時間座っていたことだけだ。彼は目の前の炎だけを眺め、その時の記憶に集中した。すると、その夜、傍らに座っていた父の存在から何かが伝わって来たような気がしたのを思い出した。それは、ただ黙って隣に座っていただけなのに、互いのエネルギーが強く繋がりあったような感覚だった。その時の感覚が彼の中に蘇ってきた時、彼は心から満たされた気分になった。

 

 もう我慢の限界かもしれない。彼女はそんな思いを数え切れないほど繰り返しながら生きて来た。彼女はごく普通の家庭に育ち、ごく普通の事務職として働き、いたって平凡な毎日を送っている。そんな彼女の周りには、社会の常識を守りながら、世間で流行っている娯楽を楽しみ、世間で噂になっている店に通い、SNSで話題の話題を話題にする人々が厚い層を成している。そんな厚い層の中で、時折り窒息死しそうなほどの息苦しさが彼女を襲うことがある。そんな時は独りの部屋で膝を抱えながら悪夢の発作をやり過ごすのだった。

 彼女には、どこか世間の人々の感覚や常識と噛み合わないところが多々あった。記憶を辿ると、そんな違和感は物心ついた幼子心に既に宿っていた。違和感は家族の中にあっても常に感じていた。だとすると、これは生まれつきのものであり、彼女は家系からはみ出した突然変異である可能性が高い。保守的な家庭に育った彼女は、その時すでに異邦人としての人生が始まっていたのだろう。彼女は内向的な子どもだったため、それを周囲に主張することはなく、黙って自分の中に仕舞い込んだ。

 生物の長い歴史を見れば、突然変異は常に至る所で起っている。つまり、いつの時代にも家族や組織の中に突然変異的な人間は繰り返し現れるものである。そんな突然変異は生物の進化上あるいは組織の発展のための重要な意味が隠されていてもおかしくない。だとしたら突然変異の問題は単純な排除で解決されるのではない。そんな突然変異者が持つ異能をどう活かすかであり、あるいは、現在可もなく不可もない突然変異者を、将来の環境変化に備えてどう温存するか、つまり生き残る権利を確保できるかだ。だがそんな突然変異者は、周囲の無知で強大な力の圧力によって圧死させられるのが常だ。

 彼女にとって何より苦痛だったのは、無意味なあるいは不快な言葉が飛び交う会話に付き合わされることだった。そんな時は目を伏せ口を閉じ、心で耳を塞いで一層頑な態度になる。そんなふうに感覚を遮断し、不快な空気の防衛に努めても、彼女の特異な感性は色々なものを拾い上げてしまう。

 彼女の無意識は、言葉や感情よりもっと微細な感覚を拾い上げる。相手の声のトーンから、硬さや柔らかさ、密度や透明度、波形の大きさや強度、さらに体全体から醸し出される空気の軽さや粘り具合、目や顔の筋肉の微細な動きの滑らかさやぎこちなさ。そんなものから相手の無意識のエネルギーを瞬時に感じ取る。そんなふうに周りのものと関わる彼女にとって、生き馬の目を抜くような社会、狐と狸の騙し合いのような社会は耐え難いものだった。

 今のところ彼女の持って生まれた特異な感性は病みつつも、辛うじて生きながらえている。それが幸いなのかと問われると、いっそそんな生きづらい感性を葬り去ってしてしまった方が幸せだと言うこともできる。その方が周囲と溶け込むことができ、間違いなく楽に生きられるはずなのだから。だが彼女の特異な感性は、周囲の感性と同化することを頑なに拒んでいた。そのため彼女の生きづらい日々は続いた。

 一方で、そんな彼女その特異な感性で、近所の猫や犬を相手に密かな遊びを楽しんでいた。彼女の特異な感性は容易に猫や犬と通じ合える能力を持っていた。塀の上で背中を丸めて安心し切っている猫を見かけると、後ろから忍び寄ってビックリさせたり、週末には街中を散歩する犬と出会うたび、あなたなかなか賢そうねとか、あら、あなた性格悪そーとか、ずいぶん間抜けそうな子だことなどと、彼らから感じ取ったエネルギーから様々な推測をして面白がっていた。猫にしても犬にしても、こっちがじっと見つめると、彼らは様々な表情を見せる。そんな表情と出会うたび、彼らと通じ合えた気がして面白かった。そんな時だった、その仔犬と出会ったのは。

 仔犬との出会いは偶然だった。それは何気なく立ち寄ったペットショップでの出会だった。そしてそれはただ猛烈な一目惚れだった。仔犬との出会いは彼女に二つの意味で幸いをもたらした。まず、彼女を疲労困憊させる、不快で無意味な付き合いを断るための、鉄壁な理由を得ることができたことだ。そして二つめは、とても相性の良い相棒との暮らしによって、日々の心の潤いを得られるようになったことだった。

 動物の感情表現は至ってストレートだ。ことに仔犬ともなれば欲望を全身全霊で訴えてくる。彼らの思考は単純で捻じ曲がったところがない。よく言えばシンプルだ。賢くなり過ぎたホモ・サピエンスと違って、思考をねじ曲げたり、こじらしたりしていないと感じる。それはまだ、世間の悪に染まる前の幼子のように、物事をあるがままに受け取れる透明でシンプルな思考だ。そんな仔犬の姿を通して、彼女は自分にとって何か大事なものを見ていた。それは自分が失ったもの、それは何か…、自由への翼、軽やかな心…。

 その夜、日課になっていた仔犬との短い散歩に出かけた。夜の街は人も車も少なく、ほどよい静けさだ。仔犬のジルは大きな犬に吠えられることもなく、車のクラクションに悩まされることなくリラックスしている。そんな時、何故かジルが突然走り出した。不味いことにその時彼女はリードをしっかり握っていなかった。夜の散歩の心地よさに気が緩んでいたのだ。ジルのリードは彼女の手の中からスルリと擦り抜け、ジルはあっという間に遠くへ駆けて行ってしまった。

 彼女が慌ててジルを追いかけていくと、見知らぬ屋敷の前に出た。辺りを見回しジルを探す。するとその屋敷の扉の隙間から仔犬の尻尾が見えた。彼女は急いで駆け寄ったが、間に合わず扉はガチャンという音を立てて完全に閉まってしまった。「しまった」っと思いながらも、彼女は気持ちを落ち着かせその扉を眺めた。それは見慣れない凝った彫刻が施された大きくて立派な扉だった。いったい誰の屋敷だろう…。そこで数歩後退りし、改めて屋敷を見上げてみると、その屋敷はどことなくこの街に似つかわしくないような、場違いのような違和感を覚えた。明らかに周囲から浮き上がっている。それはまるで自分の存在のあり方と重なるように見えた。

 彼女は一呼吸すると、その不思議な感じのする屋敷の扉の前に立ち、呼び鈴を探したが見当たらず、仕方なくノックをした。しばらく待っても反応がない。何回かノックをしてみたがやはり反応がないので、扉をそっと押してみた。すると扉はすんなりと開いた。

 

 四人は出口を閉ざされた部屋の暖炉の前で膝を抱え、それぞれの想いの中に沈んでいた。長い沈黙の夜が過ぎて行く。仔犬の安否を心配する女の押し殺した泣き声が、時折りわずかに沈黙を破る。隣でコートを羽織った品のいい女が、仔犬を心配する女をそっと抱き寄せた。彼女は女を抱き寄せながら、愛するものがいることの苦悩と喜びを想像の中で一緒に噛み締めていた。そうするうちに、自分の意識の深いところから何かが立ち上がってくるのを感じた。それは神の恵のような複雑な期待感を伴っていた。

 父の危篤を心配していた男が時計を見て言った、もう夜が開ける頃だ。すると他の三人も時計を見て、それぞれが扉の方を見た。その時、微かに外から何かが聞こえたようだった。全員に緊張が走り、彼らは一斉に耳を澄ませた。それは確かに仔犬が鼻を鳴らす音だった。

 「ジル」彼女はそう言うと物音のした扉の方へ飛んで行き、扉に手を掛けると扉はすんなり開き、仔犬が飛び込んで来た。部屋に、一気に希望の空気が満ち溢れた。仔犬は飼い主との再会の喜びを全身全霊で現すと、止まない興奮を全ての人に振りまいた。それは、大人になると人から消えしまう素直な感情表現であり、そこに余計な計算や駆け引きなどはない。全身全霊で生きている姿だった。仔犬はまだ持て余す喜びの興奮を抱え、再び飼い主のもとに戻ってきた。その時、彼女は自分が求めていた大事なものとは何かを理解したような気がした。そんな仔犬をしっかりと抱き抱えると、彼女はそのまま仔犬の入ってきた扉に向かった。扉の前で他の三人に向かって笑顔を見せると、扉に手をかけた。三人は希望を持ってその瞬間を見守った。が、扉は開かなかった。

 彼らは不安に襲われ、一斉に扉を開けようと動いたが、どれ一つ開かなかった。彼らは落ち込んだ顔で再び暖炉の前に集まり膝を抱えて黙り込んだ。その時、汚れたシャツの若い男が希望の光を見つけたような顔で言った「まだ希望はある。いったいこれは誰が仕組んだゲームなのかは知らないが、とにかくこの部屋を見てくれ、この部屋には扉が四つ、そして四人がそれぞれがみんな違う扉から入って来た」その言葉に全員がそれぞれ自分が入って来た扉を見つめた。そしてコートを羽織った女が興奮を抑えながら言った「もうこのゲームは終了に近づいているかも知れないってことね」。身なりのいい男が続けた「それぞれがそれぞれ入って来た扉から出るべきなんだ」。四人は再び立ち上がり、それぞれが入って来た扉を開けようとしたが、扉は開かなかった。

 仔犬を抱えた女は、仔犬を守るように強く抱きしめた。その時、汚れたシャツの若い男が再び言った「タイミングが重要なのかも知れない」。「つまり、みんなでタイミングを合わせ一斉に扉を開けるってこと」コートを羽織った女が再び引き継いだ。「いいわ、一二の三で開けましょう。あなた号令を掛けてくださる」。シャツの男が頷き、全員の顔を見た。

 男は取手に手を掛けながら扉の向こうの世界に思いを巡らせた。この扉の向こうには一体どんな世界が開かれているのだろうか、以前と同じ砂漠だろうか、それとも以前とは違った世界へ開けているだろうか。例えどんな世界であろうと人間らしく生き抜く道を求めて歩こう。そう決意を新たにし、取手を握った手に力を込めた。

 その時コートを羽織った女が「待って」と言い出し、号令をかけようとしていた彼を止めた。女は父の見舞いへ行こうとしている男のところへ行き、コートを脱ぐと彼にコートを返した。コートを受け取ると男は「お元気で」と言って女を抱きしめた。彼女はそのまま仔犬を抱いた女のところに行き、仔犬ごと彼女を抱きしめると、シャツの男に向かってウインクをし、力強く言った「いいわ」。四人はそれぞれの扉の取手に手を掛け、男の合図を待った。シャツの若い男は頷くと号令を掛けた「一二の三」。四人は取手を回し力強く扉を押した。四つ全ての扉からは、一斉に柔らかな白い光が差し込んだ。

 

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アップルと林檎-No.1 彼女の小さな家の二階の北側に

No.1 彼女の小さな家の二階の北側に

 

 彼女の小さな家の二階の北側に、本棚で埋め尽くされた書斎がある。書斎の反対側の、南に面した寝室は日当たりも風通しも申し分なかった。二階は書斎と寝室と屋根裏の小部屋に通ずる階段があるだけだった。一階は広々としたリビングとダイニングで、南の面にはテラスが張り出し、その先に青々とした緑が広がっている。

 彼女がこの家に越して来たのは最近のことだ。この家は元々祖母の妹、つまり大叔母の家だった。随分前に、独り者だった大叔母が亡くなり祖母も亡くなり、既に未亡人だった母がこの家を相続した。母はこの田舎の家を好まず、他人に管理を任せていた。その母も昨年亡くなり、彼女がこの家の相続人になった。それを機に、街からこの田舎に越して来たのだ。

 彼女の母も祖母も生まれた時から都会で暮らして来た人だった。そして彼女も生まれた時から都会に暮らし、都会暮らしの利便性、文化の先進性を享受して育った。彼女の感性はそれを楽しみ、一方で自然への憧れも持ち続けた。時が進み、そして時代が進み、いつしか都会は彼女に余所よそしい顔を見せはじめた。彼女は自分を育てた都会が今や乾いてささくれ、錆びて色褪せ、彼女が愛した都会とは全く違う街になってしまったように感じていた。それは彼女が変わったせいのか、時代が変わったせいのか分からない。そんな時、大叔母の家の相続は彼女にとって絶好のチャンスだった。彼女は迷わず、直ちに田舎暮らしを決行した。

 大叔母の家は立派とは言えなかったが、幸い頑丈に建てられていた。おまけに年代物の家具もそれほど傷んではいなかった。そのため、大叔母の家の年代物の家具や田舎風情の内装をそのまま残し、補修だけを行った。暮らすにはそれで十分快適だった。

 子どもの頃、何度かこの家に遊びに来た記憶が残っている。しかし記憶はわずかであまりはっきりしていない。それでも子ども心にしっかり刻まれた記憶もある。そのひとつは、この家がまるでおとぎ話に出てくるような家だと思ったことだ。都会暮らしだった彼女にとって自然に囲まれた田舎家は、まさにおとぎの国の家そのものに思えた。

 もうひとつの記憶は、大叔母その人の印象だ。彼女は記憶を辿ってみた。大叔母は無口な人だったように思う。はっきりとした顔は思い出せないが、白髪が美しく気品のある笑顔がどこか世俗を離れた印象を与える人だった。それは子どもの目には、年老いた妖精のように映った。今にして思えば、そんな大叔母はかなり内向的な人だったと推測できる。

 大叔母の家に越して来てひと月が過ぎ、新しい暮らしが落ち着きはじめると、彼女は天気の良い朝には決まってテラスで食事するようになっていた。そんなある日、彼女は二階の書斎の様子が急に気になりだした。越して来たその日は、その扉は他の扉とはどことなく違った面持ちを感じ開けることを躊躇った。どんな違いと言われても困るような微かなものだった。それでも彼女は躊躇いながら扉を開け、明かりをつけると、そこは書斎だった。その時は、扉口からそっと中を覗いただけで、そのまま扉を閉めた。

 そして今、この時、これまで入ることを躊躇っていた二階の書斎に踏み込む時だ来たと感じた彼女は手にしていたカップを置くと、深呼吸をして立ち上がった。

 二階に上がり、書斎の扉に手をかけると、扉はスムーズに開き、静かな沈黙で彼女を迎え入れた。書斎に踏み込みぐるりと全体を見回すと、壁という壁は天井まで届く括り付けの本棚で埋め尽くされ、本棚には隙間なくビッチリと書物が詰め込まれていた。天井まで届く本棚には小さな梯子が掛けられ、それはまるでちょっとした図書館のような錯覚すら感じさせる雰囲気だった。 

 北側の小さな丸窓からは、穏やかな光が差し込んでいた。窓の下には小さなライティングデスクがあり、そこにはアジアの土産品のような素朴な木彫りの置物があった。「何だろう、動物だろうか」。その窓から近くの森が見えた。東側には掃き出し窓があり、寝室に繋がるバルコニーがあった。窓の側には一人用のソファーとオットマンと小さなテーブルが当時を思わせるままに置かれていた。きっとここで大叔母は読書をし、お茶を飲み、時にはそのまま昼寝をしたのかも知れない。そんな姿が容易に浮かび上がる。

 この家には家具や壁が今にも語りかけて来そうな雰囲気がある。彼女はそう感じている。古い家具やどこか人懐っこさのある田舎家風情のせいだろうか。家具や壁がまるで息吹を持っているもののように感じてしまうのだ。それは彼女に安らぎを与えることもあれば、謎や神秘を感じさせることもあった。中でもこの書斎は極めつけだった。ここには無言のお喋りが止めどなく詰まっているように感じる。 

 彼女はそのソファーに腰を下ろし、書斎をゆっくりと眺めて見た。棚の所々に木彫りの動物らしきものが置かれている。それらはどれもこれも素朴でどことなくユーモラスで、何故かアルカイックなアニミズムを感じさせる。彼女はオットマンに足を乗せ、体を逸らせ寛ぎのポーズを取ってみた。大叔母はきっとここでこんな風に体を横たえ、考え事に耽ったのかも知れないと思った。いったい、どんな考え事に耽ったのだろう。沢山の本に囲まれた書斎で、きっと言葉に埋もれながらゆったりとした時間を過ごしたに違いない、そんなことを思った。

 その時、棚の一角に木彫りの置物と一緒に黒板が置かれているのを見つけた。その黒板には白いチョークで力強くこう書かれていた「それは=なのか、≒なのか、≠なのか」、いったい何を考えていたのだろう…。

 

「林檎の森」

 

 林檎の木から林檎の実がひとつ、コツンと頭の上に落ちてきて、私は目覚めた。目覚めた私の視線の先に蛇が巻きついたもう一本の林檎の樹が見える。蛇が私に向かって「やあ」と言ったのを聴いた。その樹の陰から男と女の影が現れ、女が林檎の実を手に取り一口ガブリと嚙った。イヴだろうか。イヴはその時、何を味わったのだろう。私には知る由もない。

 私の後ろで何かが地面に落ちた音がした。振り向くと後ろには林檎の森が広がっていた。私が森の中へ入っていくと、しばらくしてまたポツンと地面に林檎の実が落ちる音がした。耳を澄ますと、さらに奥の方でポツンと林檎の実が落ちる音がした。私の好奇心はその音を追いかけ林檎の森の奥深くへ進んで行った。好奇心は人類にとっての宝物であり罠である。気がつくと辺りは暗くなっていた。上を見上げると、生い茂った林檎の葉が陽の光を遮っていた。

 私は目の前にあった林檎の木から、真っ赤に実った林檎の実をもぎ取りガブリと嚙ってみた。その時、頭の中で言葉のカケラの声を聴いた。もう一口ガブリと嚙ると今度は頭の中で知のカケラがキラリと光ったのが見えた。いつの時代も知を愛し、恐れを知らぬ者は光を求め言葉を求め、林檎の世界へ分け入って行く。私はそんな者たちの想いに想いを馳せてみた。

 すると私の小さな頭の中に無数の言葉と、無数の言葉以前の言葉がざわめきとなって流れ込み、それはやがて嵐になった。嵐の風に巻き上げられ、散り散りになった言葉はもはやほとんど聴き取れず、断片的で意味をなさない。私は何とか意味という糸をたぐり寄せようと全身全霊で耳を傾けた。だが聴き取れた言葉はわずかに「万物」と「謎」だけだった。やがて言葉のカケラは星の数を超え、私の意識は大いなるざわめきの渦の中に埋もれていった。

 

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ジェンとケイトの物語 no.8

大きな魚が小さな魚を食べ尽くした

大きな魚はさらに大きな魚に食べ尽くされた

さらに大きな魚はさらにさらに大きな魚に食べ尽くされた

最後には巨大な魚がすべての魚を食べ尽くした

巨大な魚はもうなんにも食べるものがなくなると

自分自身を食べはじめた

巨大な魚が自分自身を食べ尽くすと

世界は真っ暗になった

 

 覇権争いの行末はいったいどんなものだろう、多様性を失った世界の行末は…。ケイトは頭の中で呟いた。いつの時代も、巨大な魚はすべての魚を食べ尽くそうとする。巨大な魚はいっとき一時代、世界を支配するかに見えても、やっぱりそれはいっときのこと。必ず彼らの支配は崩壊する。それは変わらない歴史の営みに見える。今世界で大きな口を開けて泳ぎ回っている巨大魚たちの争いはいつ止むのだろうか。大きな自然の摂理では、弱すぎるものは言うまでもなく、強すぎるものも排除される。強すぎるものは生態系のバランスを危うくするからだ。自分はどうみても弱いものの方に入る、生き延びられるだろうか、気が滅入る。

 ケイトは詩が書かれた手元のページに視線を戻した。それはたまたま手に取った本の、たまたま開いたページだった。表紙には鮮やかな青を背景に、真っ白な魚の絵が描かれていた。ただ単に青の鮮やかさに惹かれ手に取っただけの本だった。ケイトは本を平台に戻すと、本探しをやめ本屋を出た。気晴らしのために寄った本屋だったが、逆効果だった。外は晴天だ。本の表紙のように澄み切った真っ青な空が広がっている。

 通りは賑やかだった。個性を主張するかのように皆んな髪も爪も競うようにカラフルだ。スマホを片手に歩く恋人たちは、相手の顔を見ることなく会話を続けている。ケイトはネット社会があまり好きではない。とはいってもネット社会の流れはもう誰にも止められない。ケイトの頭がまたイライラしてきた。

 ネットの世界は多様性に溢れている。実に多様な自己アピールの数々が止めどなく流れ続けている。流れはどんどん激しくなっている。企業も、個人も、誰も彼もが情報の巨大な雲の中に埋れまいとしてもがいているように見える。便利で自由な世界であるようでいて、どこか息苦しい。ここに真の自由は、多様性はあるのだろうか。ここにあるのは単に混沌なのだろうか。混沌の渦の中からやがて新たな秩序が生まれるというが、その新しい秩序は私にとって人類にとって吉だろうか凶だろうか。そんなことは、きっと誰も分からない。一寸先も見通せないほど、世界はあまりに混み入っている。人類にとって正しい答えにたどり着くのは至難だ。私には分かりようもない問題だ。考えてもしょうがない、けど…。

 ケイトはまたもや答えのない答えを求めて考えている。それは彼女の救い難い厄介な癖である。彼女は物事の起こりには、必ず自然の摂理が働いているはずだとどこかで信じている。だから考えることをやめられないのだ。

 今日はもう、何も考えたくない。ケイトは公園に向かって歩き出した。っとその時、すぐそばを歩く人物がケイトの目を惹いた。彼が近づいてきた時、ケイトが感じたのはふわっとした空気だった。振り向くと彼は至って何の変哲もない人だった。しいていうなら、癖のない人だろうか。その癖のなさは例えていえば、素材の良さを生かした素朴な野菜料理といった感じだ。彼は振り向くこともなく我が道を行くように真っ直ぐ大股で歩いて行った。気がつけばケイトは足を止め彼を見送っていた。彼が吹かせた新鮮で素朴な風がケイトの中に流れ込み、窮屈になりかけていた思考を解放した。

 本当のところ、個性とはなんだろうか。本当のところ誰れが弱者で誰れが強者だろうか。それは何を大事にするかだ、私が何を大事にしているかだ。自分に訊けばいい、自分が掴み取るものだ。

 

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ジェンとケイトの物語 no.7

 甘い香りが支配する公園の入口付近では、幸せそうな顔があちらこちらに見える。彼らは一様にクレープを頬張っている。

 ジェンは言った。「あの人たち、本当に幸せそうね」ケイトがうなずく。

 「本当に幸せな顔って、他人まで幸せにするから不思議」ケイトが笑顔を見せる。

 「赤ん坊の無垢な笑顔と同じってことかしら」ジェンは向かいのベンチの傍で、ベビーカーに乗ってこちらを見ている赤ん坊に変顔をして見せた。

 「無心で下心も嘘偽りもない笑顔。大人になるとなかなか難しそうね」ジェンは再び赤ん坊に変顔をして見せた。赤ん坊は嬉しそうに笑う。何が可笑しいのかも理解しないまま。

 「店では造花みたいに笑う人たち、テレビコマーシャルでは嘘八百を並べ立てる人たち、ニュースでもフェイクが大流行」愚痴るジェンの傍でケイトは無言でどこか遠くを見ている。

 「そうね、今にはじまったことじゃないわね。でも大人になれない私はこの状況にうまく対処できない。芸術なんてやっているからかしら」ジェンは仕方ないかといった顔をして、クレープの甘い香りを脳の深くまで染み込ませるように吸い込んだ。ジェンの目線の先に広がる空は憂のない澄んだ青をしている。

 その時、ジェンは目の端に何か楽しげなエネルギーが近寄ってくるのを感じた。振り向くと3人の男子がジャレ合うのが見えた。何やら楽しげな様子。そのうちの一人の男子が得意げにバック転をして見せた。仲間の男子に囃し立てられおどけて見せる彼は小柄でスリムだった。黄色と茶のバーバリーチェックのズボンを履きこなしたお洒落な男子だった。

 そんな彼に見とれていたジェンの中で違和感のムズムズが沸き起こった。アレっ、何だろう、何か腰回りがもたついている。改めて彼のズボンを見るとズボンと思っていたものはジャケットだった。彼はジャケットの袖に細身の足を入れ、ジャケットの見頃を腰に巻つけている。その奇抜なファッションに、不覚にもお洒落と感じたジェンは好奇心に誘われ、彼のファッションチェックを開始した。

 黄色と茶色のジャケットの袖からニョキッとはみ出た間抜けな足、その足には真っ赤なソックス、その先に茶色のショートブーツ。黄色と赤と茶と、類似色でまとめている。そのせいか腰から足先までスムーズな流れだ。なかなか粋だ。腰回りはジャケットの見頃がもたついたせいで重く見える。その下に細身の袖に通ったスリムな二本の足。安定感が悪い。しかしその不安定感は重石のような厚底ブーツで解消されている。ブーツのボリュウム感がバッチリだ。

 ジェンはその独創的なセンスに心が躍る。「ヤルねー」そう言うと隣のケイトに目で合図を送る。ケイトはジェンに促され彼を見た。「彼、イケてると思わない」ジェンの言葉にケイトは笑顔を見せた。ケイトは穏やかに彼のセンスを受け入れたようだった。ジェンの心は空と同じ澄み切った青になっていった。そんな中、洒落た彼の前を数人の身なりの良い大人たちが非難や怪訝な顔をして通り過ぎて行った。やがて洒落た彼らも何処かへ立ち去った。

 ジェンとケイトはそのままベンチでのんびりしていると、向こうから華やかな女たちの一団が近づいて来た。皆一様にハイファッションで決めている。高そうなブランド品が目に付く。中でも鮮やかな配色の際立った女性は、自他ともに認めるイケてる女であることを誇示するかのようだった。ジェンは彼女らの着こなしに何故か強い違和感を感じながら眺めた。何かがチグハグ、何かが不自然と感じてならない。

 彼女たちが去った後に見えた景色は、緑の茂みに咲く色鮮やかな花たちだった。花たちはさっきの彼女たちに負けない華やかな色彩と個性的な姿で咲き誇っている。花たちはいつもながら美しい、どこまでも自然で完璧な美しさだとジェンは思った。この違いは何だろう。

 まあ、いつものことだけどマトモな大人って理解できない。ジェンの頭の中のモヤモヤが呟いた。奇抜なファッションをした彼に対してマトモな大人たちはしかめっ面したけど、私はイケていると思った。反対にセレブ雑誌から抜け出て来たような彼女らのファッションに違和感どころか不快感さえ感じている。私って変?あまのじゃく?こんな私はやっぱりママがいうマトモな大人になれそうにない…。ジェンは再び澄み切った青い空を眺めた。

 

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ジェンとケイトの物語 no.6

 「悪いわねケイト、付き合わせちゃって」ジェンとケイトは高級ブランドの店が建ち並ぶ通りの一角にある気取った店の片隅で気取った椅子に座り、漫然と店内を眺めている。

 ジェンとケイトが店に入った時、店員たちは彼女らをお姫様のように歓待した。その派手な歓待ぶりはふたりの居心地を悪くさせたが、ジェンが母から預かった伝票と用を伝えると店員はふたりに椅子を勧め早々に店の奥へと姿を消してくれた。そうしてふたりは今、漫然と店内を眺めている。

 店員たちは新たな客が店内に入ってくると早々に執拗な丁寧さと派手な歓待ぶりの演技を再開した。彼らの丁寧さ、親切さが際だてば際だつほど、接客が派手になればなるほど、そこに隠された計算高さが露骨さを増すようだ。とはいっても、そのあからさまな接客に酔いしれる客も少なくないのだから、その接客は正しいのかも知れない。ジェンはそんな思いで眺めていた。

 そんな中で、一人だけ屈託のない自然な笑顔で接客する店員がいた。彼女の笑顔は健康的な美しさで輝いているように見え、ジェンが見とれているとケイトもその美しさに気づいたのか、ふたりは目を合わせ頷いた。ジェンは思った。私にとって不快でたまらなく思われる偽善的な環境の中で、彼女はいったいどうやってあの健やかな美しさを保っているのだろうか。

 その時、店員が派手な紙袋を下げて店の奥から戻ってきた。ジェンは店員から母に頼まれたものを受け取りケイトと店を出る。「ねえケイト、気分直しに最近噂になっているクレープの屋台に行かない。公園の近くよ。ジェラートが美味しいらしいの」ケイトが頷く。

 しばらく歩いて行くと閉鎖的な塀が続く高級住宅街に出た。その塀は頑丈な守りの機能一色に塗り固められているように見える。ジェンはそんな高級住宅街を歩きながら思った。塀の奥の住人は塀の中の安楽に埋没し、塀の外への関心を失っているのか、良心が怠惰なのか、眠りこけているのか…。この街は一段と意地悪さ増したようだわ。

 その時ジェンの眉間にシワが刻まれ、ケイトはそんなジェンを横目で見ていた。ジェンは無慈悲なもの不誠実なものに反射的に噛みつく癖がある。政治家や企業家の言葉に四六時中噛みついている。さらに、そんな社会や組織に従順過ぎる善人にも噛みつく。「私、従順な善人なんていう窮屈なものになんかなりたく無いの」そう言って鼻息を荒くする。

 ケイトはそんなジェンの噛みつき癖の根っこにはどんなものがあるのだろうか、政治家に怒る時も善人に怒る時も、それはきっと同じ根っこから生じているのだろうと思っている。さらに、ジェンは論理的に噛みついているというより、肌感覚で噛みついているとケイトは分析する。

 ジェンはその素直な肌感覚をいつまで持ち続けられるだろうか。世間の善や正義とやらは、大概ジェンの肌感覚と合っていない。そういう自分も世間を斜めに見ている。そんな私たちふたりはマトモな大人になれないのかも知れない。ジェンならそれをどう思うだろう。ケイトは再びジェンをチラ見する。もう眉間のシワは跡形も無かった。ジェンならきっとこう噛みつくだろう。「マトモって何、マトモな大人って何、善人って何…」ケイトはそんなジェンを想像をするうち、何だかジェンが頼もしく思えてきた。

 「ケイト、ほらあそこ、あの真っ赤な屋台。ああ、クレープの甘いいい香りがしてきた。ねえ、走ろう」ケイトの耳にジェンの弾んだ声が響いた。

 

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ジェンとケイトの物語 no.5

 その日は天気のはっきりしない日だった。ケイトは地下鉄のホームで電車を待っている。ケイトの前に7、8歳ぐらいの顔立ちの良い女の子がミッション系の制服を着て母の隣に行儀よく立っていた。隣に並ぶ母もまた顔立ちの良いすらっとした女性で、センスの良い服を身につけ真っ直ぐ前を向いて立っていた。電車はなかなか来なかった。その間ケイトはその親子の様子を斜め後ろから見るとはなしに見ていた。

 なんて行儀よく我慢強い子なんだろう、躾の良い子だ、裕福な家庭の親子だろうか、綺麗な親子だ。が、やがて親子の様子に違和感を感じはじめた。なんだろうこの嫌な感じは、そういえば彼らは一度も会話も視線も交わしていない、手も繋がれていない。ケイトの中に悲しい感情が湧いてきた。あの女の子はどんな思いでそこに立っているのだろうか、この親子の日常はいつもこんなに冷めているのだろうか。

 やがて電車が来て親子はその電車に乗り込んだ。ケイトは行き先が違ったので次の電車を待った。その間ケイトはその親子について考えることを禁じた。悲しくなるからだ。間もなく目的の電車が来てケイトは乗り込んだ。扉の脇に立ち窓に映る暗い景色を眺めていた。ケイトのそばの座席には登山帰りの親子がいた。父と幼い女の子が座席に座り、その前に母が立ちその母を挟むように男の子二人が立っていた。

 「ねえねえ」兄と思われる男の子が母に向かって遠慮がちに声をかける。母は気づかないのか振り向かない。「ねえねえ」男の子は続けて母に声をかける。何度も何度も。どうやら母はその声を無視しているようだ。そのうち反対側の弟が母に話しかけた。母は直ぐに彼を見て楽しげに話をする。やがてその楽しげな会話に父も加わった。

 その傍で兄が再び遠慮がちな声で母に声をかける。だが母も父も兄を完全に無視する。それでも兄は母に声をかけると母はようやく兄の方に顔を向けた。しかしその顔は敵意に満ちていた。ケイトの心は激しく痛んだ。この親子の絆はどんなナイフで断ち切られたのか、この親子にどんな不運が襲ったのだろうか。

 電車はケイトの目的の駅に着き、ケイトはその親子を置いて電車を降りた。地上への階段を昇りながらケイトは悩んだ。私にもあんな災難は起こるだろうか、我が子を愛せないという災難が…。足元に地上の光が射し込んできた。どうやら外は晴れたようだ。

 ジェンならどうだろう、ジェンにもあんな災難が起こるだろうか、あの天真爛漫な顔で笑うジェンにそれは想像しにくい。それでも災難とは思いがけない時に思いがけない形でやってくる。それを人は不条理という。

 地上に出ると、通りを挟んだカフェテラスにジェンの姿が見えた。ジェンはケイトを見つけると満面の笑みで手を振ってケイトを呼んだ。ケイトは手を振って呼びかけに応える。悲しみで暗くなっていたケイトの心に陽が射した。やっぱりジェン に限ってそれは無い。ジェンに何かあったら私が守る。そんな思いがケイトの弱気になっていた心に強さを呼び覚ました。その強さは心に光を与え、幸せな感情が湧いてきた。

 ジェンに向かって足を早めるケイトだが、心は少し戸惑っていた。人の心はなんと移ろいやすいのだろう。ちょっとした心の動きで人は幸せにも不幸になる。そもそも心は存在自体が幻想に近い、頭の中の問題なのだ。なのにニュースを賑わす痛ましい問題のほとんどは人の心や頭の中の問題だ。

 人間の思考はどこかチグハグだ。人間の創造性に富んだ脳はどうしてこうも粗雑な幻想を生むのだろう。「精神は痴呆だ」と言った哲学者がいた。精神とは一体何か、その正体とは何なのだろう。人は何のために考える意識に目覚めたのか。考える意識が弱肉強食のための、生存競争のためだけの道具であるならば、動物レベルの意識で十分なはずだ。創造性と好奇心に富んだ人間の考える意識は、一体何を求めどこへ行こうとしているのだろう。ケイトの思考は空を彷徨い当てもなく放浪する。

 

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