小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

ジェンとケイトの物語  no.1

 「ジェン、ジェン起きたの」母の声。ジェンは起きることに抵抗し、ベッドの中でもぞもぞしながら寝床の温もりをきつく抱きしめた。

 「ジェン」再び母の声。ジェンはさらに起きることに抵抗を重ね、顔にかかる布団を手でまさぐり布団の端を掴むと頭の上まで引き上げた。その時、ドタドタッと本の落ちる音がした。

 「やった」ジェンはそう言うと布団からわずかに顔を覗かせ、参ったといった顔でベッドから崩れ落ちた本の数々を布団の端から眺めた。床には色鮮やかな装丁の本が事件現場のような派手さで散らばっていた。その中に幾つか地味な装丁の本が混じっている。その地味な本の表紙には「禅」とか「空」とか「無」とか、何やら神秘的な言葉がふわふわと浮かんでいる。

 ジェンは仏教に興味のある美大の一年生である。壮大で神秘的な香りの漂う仏教思想に興味旺盛だ。にもかかわらずジェンの仏教についての理解は未だ皆無に近い。それでもジェンはジェンなりに、そこには何か神秘的でありながら理にかなった不思議な世界を感じ取っている。それが仏教思想に惹かれる理由かもしれない。しかしそれだけではない。ジェンは浮き世のことが苦手な質だ。そのことも仏教に惹きつけられる要因だろう。そんなジェンの質は父譲りの可能性が高い。父は出世より気の合う仲間と美術や哲学の話に興じる方が性に合っている人だ。そんな父だから当然といえば当然だが勤め人としては今ひとつだ。男たるもの出世に奮闘するものだという観念を固く握りしめている母には、出世を欲望しない父に不満だ。

 「ジェン、起きたの、もう9時よ。ママ美容院に行きたいのよ、その前に寄るところところがあるの、早く起きて朝ご飯を食べちゃって」母はせかすような声で言った。その声にジェンは諦めたようにベッドから起き上がり、パジャマの上にガウンをはおると一階のダイニングへ降りて行った。キッチンからはトマトとベーコンの焼ける匂いがする。ジェンはその香りを鼻からたっぷり吸い込むと、あくび交じりに言った。

 「ママはそのままで十分きれいよ」

 「何言っているのよ。いいからさっさと朝ごはん食べちゃって」母はそう言うと、ジェンに背を向けたままキッチンのテーブルに焼きたてのトマトとベーコンの乗った皿を置いた。その動きはいつにもまして活きいきとしている。ジェンがテーブルに着くと、チーンと電子レンジの音がして、温められたミルクポットとポリッジが出された。母はその時ジェンのガウンを見て呆れた顔で言った「何て品のない派手な柄なの」

 「これは東洋の着物で出来てるの、昨日蚤の市で見つけたの。凄くないこの柄この配色、個性的でしょう」ジェンは自慢げに着物をヒラヒラさせた。

 「東洋だか何だか知らないけど、品がないわよ。ママは品のないものが嫌いよ」

 「ママには分かんないわよこの良さが」ジェンは思いっきり渋い顔をしながらポリッジに砂糖をかけミルクを注いだ。 

 「じゃー、ママ行ってくるから」母は玄関脇の鏡に向かって顎を突き出し、口紅の付き具合を確認している。「今日チャリティーのパーティーで遅くなるから。夕飯は冷蔵庫に準備しておいたからパパと食べてね」そう言うと姿見の前で背筋を伸ばし、新調したと思えるオフホワイトのスーツに身を包んだ自分の姿に満足の笑みを浮かべた。ジェンは玄関の方に向かって首を伸ばし、母の様子を覗き見ていた。母はバックを脇に抱えるともう一度背筋を伸ばし、ジェンの方を見もせず決闘にでも出かけるかのような勇ましさで胸をツンと天井に向かって突き上げ玄関を出て行った。 

 白いスーツに身を包み陽の光の中に溶け込むように消えた母の姿を目にしたジェンは、女優のように美しいと思った。ジェンは思わずため息をついた。母は確かにセンスの良い人だ。母のもの選びはいつもどんな時でもある意味間違いがない。誰もが賞賛するようなものを選ぶのが上手い。つまり、大衆の受けがいいのだ。けれど大衆とは何だろう…。ジェンは大衆について改めて考えてみようとしたが、それは雲を掴むような曖昧なものでしかなかった。

 その時、以前親友のケイトが言った言葉がジェンの口をついて出た。「大衆とは自分の考えを持たない人、自分の考えで行動しない人々のことよ」ジェンはその言葉に思わず肩をすくめた。けれど自分の考えを持たない人なんているんだろうか…。ジェンの大衆についての概念はまたすぐに曖昧なものに戻っていった。「エリートとは大衆だという人もいる」ケイトは確かそんなことも言っていた。それはどういうことだろうか…。ジェンの大衆についての概念は一層曖昧模糊なものとなった。

 

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