小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

No.7 彼は不格好に膨らんだ黒くて重そうな鞄を手に下げ

No.7 彼は不格好に膨らんだ黒くて重そうな鞄を手に下げ 

 

 彼は不格好に膨らんだ黒くて重そうな鞄を手に下げ、汗を拭きながら苦しそうに歩いている。セールスマンだろうか。あの鞄の中身は何なんだろう。彼女は何気なく想像してみた。まず軽い品では無い、かといって高級な品でも無さそうだ。何故なら彼はいわゆる吊るしのスーツを着、そのスーツは長年着込まれたと思われるような痛々しい痕が見えるたからだ。黒い革靴の底もだいぶすり減っている。

 彼の左手の薬指には指輪が光っていた。彼はどんな家庭を持っているのだろうか、彼が守っている家族とはどんな家族だろうか、彼の家庭生活は幸せなのだろうか、何故だか彼のことが気になった。人の中身は身なりだけでは判断出来ない。世界を変える人はとかく変人であることも多い。さらに普段は地味で目立たない人が危機の時に大活躍することもままあることだ。人の本当の中身はそんな簡単には分からない。ましてや沈黙する人の声はなかなか聴こえてこない。

 こんな田舎での独り暮らしを選択した都会育ちの大叔母だって、本当はどんな人だったのか。彼女の書斎にはそんな疑問を抱かせるだけの量の本が詰め込まれている。人の生活や内面は他人には容易に分からないものだ。おまけに人は自分自身のことすら本当のところは殆ど分からないものだ。なのに困ったことに、自分の本当の声に耳を傾けようとする人はとてもとても少ない…。

 

 

「男は海に向かった」

 

 その日は曇よりした重たい空の朝だった。男は寝室のカーテン越しにその重そうな空を見上げながら、何故かベッドの上で熟睡している妻の体重を想像していた。妻の体重が増すにつれ、彼女の熟睡時間も長くなっていった。

 男はガウンを羽織るとダイニングへ降りていった。お湯を沸かしコーヒーを煎れ、マグカップに注いだ。マグカップは何処にでもあるような個性のない乳白色の厚ぼったいカップだ。香りも味もそこそこのコーヒーを飲みながら食パンを二枚トースターにセットした。男は二階の寝室に戻り、身支度を整えるとまたダイニングへ降りて行き、トースターからパンを取出し、立ったままかぶりついた。時間のたった冷めたトーストはコーヒーと同じように香りも味もそこそこだった。男はコーヒーカップを洗うとまた二階に上がり、相変わらず熟睡している妻の頬にキスをしながら言った。「行ってくるよ」

 妻はその言葉にようやくかすかに意識を取り戻したかのように何かを口籠ったが、またそのまま寝入ってしまった。妻は可愛い女だ。体重は昔よりやや重たくなったものの、その屈託のない可愛さは今も変わりがなかった。ただ妻はあまり家事が得意ではなかった。そして、あまり知的ではなかった。男はそんな妻との結婚を時折り不満に思うこともあった。しかし、男が妻にそんな不満を言ったことは一度もなかった。

 男はオフィスに着くと、同僚たちに挨拶をしながら自分の席に着いた。男は中位の成績のセールスマンだ。男の売る商品はパッとしない文具だった。その色は白と黒、溝鼠色の灰色、それに加えケバケバしい赤青緑黄である。男はその冴えない文具類が詰め込まれた不格好な鞄を抱えてセールスに出た。街には、数えきれない数のフロアを積み上げたガラス張りの高層ビルが至るところにそびえ建っている。 そんなガラス張りの最新のオフィスビルのエントランスに映る自分の姿を見ると、男はいつも思うのだった。「あそこに映っている冴えない中年男はいったい誰だ」。

 男は庶務課の担当者を相手にあれこれと商品の説明をしている。男の口調は流暢というほどではないが、長年経験を積んだ分正確にマニュアルに乗っ取り、こなれた説明をしている。腰を軽く折り、姿勢を低めに落し、目を細め、口数は多からず少なからず、声は大き過ぎず小さ過ぎず。男はマニュアル通りの姿勢でマニュアル通りに商品説明をしながら、意識の半分はここにあらずだった。その半分の浮遊する意識で男は思うのだった「この不格好な男はいったい誰だ」。

 昼休み、男は市内の図書館に寄って読書をするのが楽しみの一つだった。営業のルートもそれに合わせて組み立てている。その日も図書館の入り口脇にあるスタンドカフェで軽い昼食を手短に済ますと、早々図書館の哲学書の書架からお気に入りの本を抜き取り机に向かった。本のタイトルは『嘔吐の向こう側』とあり、かなり分厚く立派なハードカバーの本だった。男が活字の追いかけっこに馴れはじめるころ、男の向かい側の席に決まって現れる婦人がいる。決して若くはないが男よりは十分若かった。その日も婦人は現れ、落ち着きのある淡い紫色のスーツを着、八の字を描くような身のこなしで男の向かい側の席に座った。かすかに甘いグリーンノートの香りが漂った。男にとってその甘さを押さえた上品な香りのする婦人はまさに理想の女性だった。

 男が顔を上げると婦人はいつものように知的な眼差しに親愛の情と尊敬を込め男に挨拶するのだった。実際会話を交わしたことがないので、本当のところ親愛の情と尊敬を与えられたのかどうかは定かでないが、男には確信に近い事柄としてそう思えるのだ。そのとき、男の心臓は急に働き者になり、全身を若返らせる。そして、男にはこれこそ自分の本来あるべき姿だと思うのだった。男は真剣に本に熱中しているかのように目を皿のようにし、時折り眉間にシワを寄せ、片手を額に当てるポーズをとる。昼休みが終わり、図書館を出た男の背中は以前よりピンと伸び、顎はやや上を向いていた。

 その晩、男には友人との待ち合わせがあった。先日、いつものことだが友人はまた夫婦喧嘩をしたと愚痴ってきた。夫婦喧嘩といっても何処にでもある些細な出来事である。 だが友人が言うには、その日はよっぽど妻の虫の居所が悪かったらしく彼女の機嫌はなかなか治まらなかったので、仕方なく彼女のご機嫌を取るため、美味しいものでも食べに出かけようと言うことになった。そして彼女の提案でその食事会に男の夫婦が呼ばれることになったのだ。なぜか男は友人の夫婦喧嘩の中和剤として時折り食事に誘われる。

 その日、男と友人は女達より早く待ち合わせのカフェに着いた。友人はやって来るなり早々早口で喋り出した。彼の愚痴話しが大方すんだ頃、妻たちが待ち合わせたかのようにふたり揃ってやってきた。友人の妻は淡いグリーンのスーツを着、男の妻の方はやわらかなオフホワイトの地にピンクの花柄のワンピースを着ている。ふたりは大の仲良しだとでもいうように腕を組み、顔を見合わせながら楽しそうに笑っている。

 四人はレストランに場所を変え、白いテーブルクロスが掛かり、ろうそくの灯った食卓で食事をした。妻たちは散々亭主の愚痴を言い、ドレスとバックとダイヤモンドとフォアグラとキャビアとオマール海老の話しをし、終始ご機嫌だった。いよいよデザートに差し掛かろうという頃、友人の妻が言った。「お宅の旦那様は結婚した頃と少しもお変わりないわねえ。いつまでもスマートで、家の旦那ときたら、ほら、このとおり」と言いながら友人のお腹を突っついた。そのお腹は見事なビール腹だった。友人は大食漢であり酒豪であり甘党でもあった。その日も浴びるように飲んで食べていた。

 妻たちは、そのお腹をからかうとダイエットの話で盛り上がり、最後には甘いものの至福について語った。そこへむせるような甘い香りとともに、デザートが運ばれて来た。男の妻には苺のミルフィーユが、さんざん迷った友人の妻にはシェフお勧めのケーキの盛り合わせとフルーツの盛り合わせが、そして友人には生クリームたっぷりの苺パフェとマロンタルトのアイスクリーム添えチョコレートシロップ掛けとプリンアラモードが用意された。友人の妻はその夫の無謀なデザートを非難めいた目で眺めていたものの、直に自分のスプーンでそのパフェに手を延ばした。男はその光景をブラックコーヒーをすすりながら眺めていた。

 皆がデザートをすっかり平らげ、いよいよお開きというころ、男はウエイターを呼んで会計を頼んだ。会計を済ませ、外へ出ると清々しい風が鼻先を撫でるように男の前を通り過ぎた。女たちはご機嫌で、友人はたいそう満足そうだった。男はその光景を見ながら一応の満足はしたものの、何かが不満だった。男は薄くなった財布を上着のポケットにしまいながら思った「オレは満足したのだろうか」。だが、そんな男の顔には満面の笑みがあった。

 友人は会計の半額を金額を男に差し出しながら言った「お蔭で、妻もすっかり満足したようだ。本当にお前は善い奴だ」。友人は男を両腕で抱き締めた。 友人の口元にはデザートの生クリームが、剃り残しのシェービングクリームのように付いていた。そのクリームは抱きついた弾みで男のスーツの肩に擦り付けられた。愉快とは言えないこの状況で、男は尚もお人好しお決まりの笑顔をつくりながら心の中で思うのだった「オレはこれでいいのか」。

 翌朝、男はいつもより少しばかり遅く起きた。朝の忙しい時間は僅かな時間のロスもスケジュールにひびく。男はベッドから飛び起きカーテンを開けに行った。その日も曇よりした空だった。妻の今朝の眠りは夕べのワインのせいか、それともデザートのせいかは分からないが、いつもよりいっそう深かった。大急ぎで朝食と支度を済ました男は、出かけにポストから新聞を抜き取って小脇に挟み、ポストの中を覗いて男宛ての郵便物だけを掴んで鞄に放り込むとそのまま出社した。

 その日も男はいつものように不格好な鞄を持って一日中セールスに歩きまわり、夕方帰社した。オフィスの席で書類を整理していると、今朝鞄に放り込んで来た郵便物に気が付いた。郵便物はいつもの通り殆どが派手な封筒のダイレクトメールで、そのうちの幾つかは地味な色の封筒の請求書だった。その中の特に地味な灰色の再生紙封筒がひとつ目に付いた。差出し人を見ると、それは裁判所からだった。「裁判所…、いったいなんだろう。」そう言いながら封筒を開けると、それは妻からの訴えによる、召喚状だった。男は妻から『不誠実の罪』で訴えられたのだった。男には訴えられる心当たりはなかった。男はとにもかくにも、急いで家に帰った。

 家に帰ると妻はいなかった。ダイニングのテーブルにも、寝室のドレッサーの前にも置き手紙らしきものはなかった。外へ出て郵便ポストをあさると、そこにはまた男宛てのくすんだ色の再生紙封筒があった。差出し人はやはり裁判所だった。開封してみると、それは友人からの訴えによる召喚状だった。友人は『不正取引の罪』で男を訴えていた。男にはまったく覚えがない。ましてや、友人とは昨夜食事をして楽しく過ごしたばかりじゃないか。そのとき友人に変わった様子は何もなかった。少なくとも男にはそう思えた。

 男が混乱した頭を抱えて立ちつくしていると、そこへ見知らぬ黒づくめの男たちがやって来た。その中の一人が男の目の前に黒い表紙の手帳をかざし、立ちはだかった。その手帳には金色の文字で『国家安全秘密警察』とあった。男は驚きながら手帳越しに黒づくめの男たちを見ると、全員髪をオールバックになで付け、薄型の尖ったデザインの黒いサングラスを掛け、細身のブラックスーツを着ていた。その数は男ひとりに対して、明らかに不利な人数だった。男は口ごもりながらもなんとか質問した「いったい何のご用でしょう」。

 すると、黒づくめの男がかざしていた手帳を懐に納めると、今度は一枚の書状を両手で男の目の前に突き付けるようにかざし、高圧的な声で言った。「オマエを偽称罪で逮捕する」男はあまりの唐突な展開と、怪し気な黒づくめの男たちに囲まれた恐怖とで、目の前が真っ白になった。次の瞬間、男は事態の確認をする余裕も無くとっさに行動を起こしていた。男は玄関を思いっきり閉め鍵を掛けた。外では黒づくめの男たちが玄関を開けようとドアを荒っぽくガタガタといわせている。男は急いでキッチンの脇の裏口から狭い裏庭を通り抜けると走り出した。町の中心街に向かって走りながら後ろを振り向くと、黒づくめの男たちは脇を絞め、機関車のように素早く腕を振りながら追い掛けて来る。男は身に覚えのない罪で負われる身となっていた。

 街一番の繁華街に逃げ込もうとしたとき、前方から突然黒づくめの男たちが現れた。男は慌てて方向転回し、右へ左へと逃げまどいながら、中心街から遠ざかっていった。町外れまで来たとき、海へ向かう標識が見えて来た。男は海に向かって走った。その海は一度も訪れたことがない海だ。その海には魔物が出ると町では噂され、誰も近寄りたがらない所だった。

 海の手前には大きな砂丘がある。その砂丘の中程まで行くと、その向こうに海が見えてきた。そこで男が後ろを振り返ると、黒づくめの男たちは、そこで立ち止まり男を口惜しそうに眺めていた。男は魔物が出るという海を後ろ楯に、黒づくめの男たちを正面に見据えて立った。やがて黒づくめの男たちは追跡をあきらめ引き上げていった。海の向こうには夕暮れの太陽が沈もうとしていた。

 男は黒づくめの男たちを見送ると、そのままそこに座り込み、海に沈む夕日を眺めていた。陽はどんどん暮れていく。湿気を含んだ海風が男の体に冷気を運んで来た。男は帰る当ても行く当てもないまま冷気に身をさらしていた。どのくらいそうしていただろうか、気が付くと、夕闇の海を従えた砂丘の裾にポツリポツリと灯りが灯り始めた。男は灯りを頼りに歩き出した。そうしてひとつの灯りの前まで立ち止まった。それは古びた小さな小屋の灯りだった。男はドアをノックした。しばらくすると中から黒いベールをまとった女の顔が覗いた。女は男の顔を見るとためらいもなくドアを開け男を招き入れた。

 小屋に入るとすぐ正面には古びた食卓のテーブルと二脚の椅子が向い合せにあり、奥にはささやかな炊事場と、その右手には小さな食器棚が一つ、そして部屋の左手には質素な麻のカバーの掛かったベッドが一つあった。ベッドの端には花柄のドレスが掛けられている。女は上から下まで全身黒の装いだった。女は男をダイニングの椅子に腰掛けるように勧めるとくるりと向きを変え、まるで病弱な身体を引きずるような足取りで炊事場に向かった。その炊事場には何の変哲もないありふれた乳白色の厚ぼったいコーヒーカップが二つと、同じように乳白色の厚ぼったい皿が二組と、アルミのフォークとスプーンが二組あるのが見えた。

 男は思った「あのコーヒーカップはオレの家にあるのとそっくりだ」。女はその乳白色の厚ぼったいコーヒーカップにコーヒーを注いで男に差し出し、男の正面の椅子にうつ向きかげんで座ると、そのまま黙ってしまった。男は黙ったままの女を前に、コーヒーをすすっていた。そのコーヒーはいったい何年前に挽いた豆なのかと思いたくなるほどカビ臭かった。それでも、海風にさらされ冷えきっていた男の身体を幾分かは温めてくれた。黒いベールの奥で相変わらず黙っている女に男は聞いてみた「失礼ですが、ご亭主を亡くされたのですか」。女はやっと聴き取れるような小さな声で応えた。「いいえ、主人は死んでなどいませんわ。ただ、どんどん姿がかすんでいるだけなのです」。男は「姿がかすむというのはどういうことか」と問いたかったが、何故かためらって止めた。するとそれを察したかのように女が話し出した。

 「主人が生きていることはこの腰に付いた錘りで分かりますの」そう言うと女は黒いドレスの裾から直径20センチもあろうかという重そうな鉄の玉のようなものを引きずり出した。その錘りは女の細い腰の辺りにしっかりと鎖で括られていた。男は目を見張ったが、女の説明を待った。女は男を見て以前よりやや声に力が付いたように話し出した。「主人は善い夫です。でもそれがいけないのです。善い夫であり続けたために、私の前で主人の姿はどんどんかすんでいきました。今ではほとんど見えなくなってしまいました。もういけませんわ」そこで女は溜め息を一つ吐いた。それからまた視線を落として言った。

 「このコーヒーカップも昔は鮮やかな花模様のカップでした。結婚したときに二人で揃えたお気に入りのカップだったのです。そのころ主人はまだ善き夫ではなく、笑顔がチャーミングなただの人だったのです。それが、だんだんと善き夫になるにつれ、主人の輪郭が擦れ、花模様も擦れていきました。主人の姿が消えてからというもの、食器の花模様が消え、食卓から会話が消え、生活の全てがすっかり味気ないものになっていました。気が付くと着ていたドレスの色も失せ、悲しみの黒に変わっていました」

 女は黒いドレスの右左それぞれの袖口を寂しそうに眺めると、視線を腰へ落とし、さらにその下の錘りへと落とした。視線を落としたまま女は言った。「主人は笑顔がチャーミングなただの人のままで、十分善い夫だったのです。事の始まりは曇よりしたある日のことです。その日主人はまだチャーミングなだたの人でした。ただ少しばかり元気がなかっただけなのです。いいえ、本当はかなり元気がなかったのです。人間ですもの元気のない日もありますわ。そこへ私がいつものように幸せな顔で現れたので、主人はいつもと変わりない素敵な笑顔と愛の言葉をくれました。でもそれは何処からか借りてきたような善き夫の笑顔でした。そのとき、主人の中で何かがズレてしまったようなのです。それ以来、主人は自分の中のズレを戻せず、いつも自分の振る舞いに違和感を感じるようになったのです。その違和感が錘りとなって私の腰に巻き付いているのです。錘りは主人が善い夫を演じる度、大きくなっていきます。今でも腰の錘りは日々育っていますわ。だから夫の姿が見えなくてもどこかで善い夫を演じているのが分かりますの。もし夫に会ったら言ってやって下さい。あなたは昔のような笑顔がチャーミングなただの人に還るべきだわと」

 女は話し終わると、幾分重荷が軽くなったとでも言うように、大きく息を吐いた。それから女は以前よりいくらか軽い足取りで炊事場に立ち、以前花模様があったという白無地の皿にハムとチーズのサンドイッチを用意して男に差し出した。男がささやかな夕食を終えると女はベッドと整え男にここに寝るように言った。女はベッドの端に掛かっていた花柄のドレスを取り上げると、椅子の背に丁寧に掛け直した。そのドレスは質素な部屋の中で、唯一の華やいだ存在だった。それはまるで、女にも華やいだ思い出があったことの証のように思われた。そのオフホワイトの地に鮮やかなピンクの花柄のドレスに、男は見覚えがあった。

 その晩、男は夢を見た。陽の照りつける砂丘をピンクの花柄のドレスを着た女が歩いている。男はその後を砂に足を取られながら着いていく。男の腰には錘りが巻き付けられている。男はかなり体力を消耗し、すっかり息が上がっている。汗だくになりながら肺はゼイゼイいっている。やがて、男は息苦しさのあまり気を失った。目が覚めると男の身体は半分ほど砂丘に埋まっていた。空には太陽が高々と昇り、目の前には海と砂丘が広がっている。昨夜の小屋と女は消えていた。

 男は砂から這い出し、体中の砂を払い落とすと、辺りを見回した。そこには海と空と砂以外には何もなかった。男は海岸線に沿って砂丘を当てもなく歩いた。しばらくすると砂丘の向こうに動く黒い点を発見した。黒い点は数を増しながら近づいて来る。やがて動く黒い点は急速にその正体を現した。それは黒づくめの男たちだった。彼らはブラックレインコートとブラックレインハットを被って再び男の前に現れたのだった。

 男は慌てて向きを変え逃げ出した。隠れるもののまったくない砂丘での逃走はかなり厳しい。男はひたすら走り続けるしかなかった。しかし、砂丘での逃走は砂に足をとられ、スピードが上がらない。それは幸い黒づくめの男たちも同じだった。男と黒づくめの男たちはのろのろレースを延々と続けた。やがて海面に赤みの増した陽の光が反射しはじめると、黒づくめの男たちは急に足を止め、昨日と同じように口惜しそうに口を歪めると、男の追跡をあきらめて引き上げていった。 男は荒い息を吐き出しながら安堵して砂丘に転がった。

 夜になるとまた砂丘に小屋の灯りがポツリポツリと灯りだした。男はしばらく考えたが、今夜も小屋に泊めてもらう意外になかったので、昨日とは違う小屋を探してノックした。小屋から出て来たのはまたも女だった。女は男の顔をまじまじと見ると複雑な微笑みをつくって言った「あなたはお人好しな隣人?」。男は唐突な質問に口を開けただけだった。女は半開きのドアにもたれ掛かったまま続けた。「困ったわねえ。お人好しな隣人という人たちはいつだって善き隣人なんだから」。男は女の話しの意味が分からなかった。男は何と答えたら好いものかと困っていると、女はドアを開け男を招き入れた。

 その小屋のカーテンは柔らかなイエローグリーン色をしていた。ベッドには同じくイエローグリーンのキルトのカバーが掛かっている。キルトのモチーフには木の実やフルーツが用いられていた。ベッドには5歳ぐらいの子供の大きさほどあるクマの縫いぐるみが一つ置かれていた。クマの縫いぐるみは大げさな真っ赤な蝶ネクタイをしていた。女は丁度夕食の支度をしているところのようだった。テーブルには二人前のディナー皿とフォークとナイフがセッティングされていた。

 女は少しふっくらしたお腹を揺らしながら台所に立った。その台所は昨夜の女の簡素な炊事場とは違い、食べ物と家電で溢れていた。女はタマネギと人参とをミキサーにかけ、直径50センチもありそうな大きなボールに移した。つづいて何キロあるのか分からないような大きな肉の塊をミンチにして、タマネギと人参の入ったボールに入れた。そこへ生卵十個とパン粉を大量に入れると勢いよくこねはじめた。それは相当に大変な作業に違いない。男は手伝いをかって出ようかと考えたが、女には男など眼中にないと言ったふうだったので、仕方なく男は黙ってテーブルの椅子に座ったままその作業を見守っていた。女は汗だくになりながらも手を休めることなく延々とこね続けた。その女の脇ではオーブンがごうごうと燃えていた。

 女はひき肉をいったいどのくらいこね続けただろうか。男は気になってベッドの上に掛かっている時計を見た。時計の針は夜の7時を指していた。女はそれからまだ10分もひき肉をこねた。女はようやくひき肉をこね上げた満足感で両腕を腰にあて大きく深呼吸をすると、そのひき肉を拳大に丸めはじめた。半分ほど丸め終わったころ、女は思い直したように全てを一つにまとめあげ直した。その大きな塊をオーブン皿に納めようと試みたが、大きすぎて納まらなかった。仕方なくまた二等分して小判型にまとめあると、オーブンの上段下段に一つづつ納めた。女は火加減を見てオーブンの蓋を閉めた。時計は8時になろうとしている。

 次に女は長さ90センチほどあるバケットをザクザクと切るとカゴに入れて食卓の中央に置いた。続いて台所にゴロゴロと転がっている果物を適当に次々とカットすると大きなコンポートに盛って食卓に置いた。食卓は急に華やかになった。女は休む間もなく冷蔵庫から巨大なカボチャのプリンを取り出し、プリンを覆い隠すよにたっぷりの生クリームで飾りつけ、さらにその上にピスタチオを散らした。そのデザートをテーブルの上に置くとテーブルはほぼいっぱいになった。後は肉が焼けるのを待つだけだった。女は賑やかになった食卓を前に、ようやく椅子に腰掛けた。時計は8時半を回っていた。

 空のディナー皿を前に、肉の焼き上がりを待つ女と男は無言のまま向かい合った。女の視線は時折ベッドの上の時計へと注がれる。「女は亭主の帰りを待っているのだろうか、それとも肉の焼き上がりを待っているのだろうか」男はそんな疑問を押し殺したまま黙っていた。時計は9時を回ろうとしている。男の口はすっかり渇いていた。男はついに渇いた口を開いて女に聞いてみた。「あの、失礼ですがご主人は?」

 女はその質問に驚いたように目を丸くし、「主人ならそこに居りますわ」と言うとベッドに視線を移した。そこには大きな縫いぐるみのクマがあるだけだった。男は申し訳無さそうにもう一度聞いた。「あのぉ、どちらに」。女は「ですから、そこに」と言うと、今度はハッキリとベッドを指差した。そこにはやはりクマがいるだけだった。ベッドはきちんと整えられており、とても人が寝ているようには思えなかった。男は納得しないまま言った。「ご主人はご病気ですか?」

 女は急に眉毛を下げ、憂鬱そうな表情をつくって言った。「そうなの。実はね、一昨日の晩、お人好しな隣人がまた疑問を抱いてしまったみたいの」。女は身を乗り出し、さらに言った「お蔭でお人好しな隣人の隣人だった主人は大変なことになっているの」。身を乗りだした女の顔は男の顔の目の前にあった。女は今度は急に笑顔をつくって言った、「そんなことより、お肉の焼け具合が気になるわね」。女はベッドの上の時計をちらっと見て「あのお肉はそう簡単には焼き上がらないの。結構頑固なのよ」女はそう言うとまた椅子に座り直し、男と向かい合った。

 男は意味不明な女の会話に対して恐る恐る尋ねた。「あのぉ、お人好しな隣人の疑問が何か不都合でも?」。女は目をむくような表情をつくって言った「大有りよ。お人好しな隣人は隣人に右のポケットの中のパンを差し出すと、左のポケットの中のパンも差し出さなければならないと思っているの。でも、時折りこれでいいのかって疑問に思うの。疑問は時として不満になるものだわ」。男は意味不明な話を黙って聞いていた。

 女はそこでベッドの上のクマをちらっと見て言った「お人好しな隣人の隣人だった主人は、先日お人好しな隣人から右のポケットの中のパンを貰ったの。だから主人はお返しに生クリームをあげたらお人好しな隣人は左のポケットの中のパンもくれたわ。でも、お人好しな隣人は生クリームが好きではなかったみたいなの。だからお人好しな隣人はまた疑問に思ったの。『これでいいのか』って。お蔭で可哀想に、主人の首には”お人好しな隣人の不満”という札の付いた時限爆弾が巻き付いてしまったの」。

 男は相変わらず意味不明な女の話しに少しうんざりしていた。それより、肉の焼け具合の方が気になっていた。だが、男は同情に満ちた顔をつくりながら言った「それは何んとお気の毒に。ご主人を助ける方法はないのですか。何か私で出来ることがあれば…」。勿論、男はそんな現実味のない話に本気で言ったわけではない。ただそう言わなければならない、それが人としての務めだと思っただけだった。

 と、その時、部屋の中でカチと大きな音がした。そして女が言った「また時限爆弾の針が進んでしまったわ。お人好しな隣人が心にもないことを言う度に時限爆弾の針がひとつ進むのよ」。男は何故か分からないがその言葉に狼狽した。音はベッドの方から聞こえてきた。そこには例の大げさな真っ赤な蝶ネクタイをしたクマの縫いぐるみが居る。男はその蝶ネクタイが急に気になりだした。

 女はそんな男の顔をじっと見つめてから真面目な顔で言った「主人を助ける方法は一つだけあるわ。それは、お人好しな隣人が自分に正直に、正当な取引をすること。でもそれは、駝鳥が空を飛ぶより難しいことだわ」。女の言葉は不快なほど威厳と自信に満ちていた。

 時計の針は十の辺りで重なろうとしていた。その時計の下では例のクマが表情一つ変えず座っている。男がその大げさな真っ赤な蝶ネクタイをじっと見入っていると、かすかにチッチッとう音が聞こえてくる気がした。それは確かに蝶ネクタイから聞こえてくるようだった。

 「あなた、お腹空かない。早くお肉焼きあがらないかしら」女はいつもの日常の会話に戻っていた。男はその女のあっけらかんとした変わり様に驚いたが、正直、男も居るのか居ないのか分からないような亭主のことなどもうどうでもよいと思った。女は本当に肉の焼き上がりを待ちかねているようだったが、何故か焼き加減を見に行く素振りが一向に見られない。だが、男はどうしても自分から早く肉が食べたいとは言い出せなかった。女と男はテーブルを挟んで座ったままじっと我慢し続けた。やがて、男は空腹のあまり座ったまま眠ってしまった。

 朝になると、また男は砂丘の上で目を覚ました。女も小屋も消え、男は再び何もない砂丘に放り出されていた。そこは砂と空と海だけの世界だった。たった独りになった寂しさと開放感の間で宙ぶらりんな気分に浸っていると、腰に錘りを付けた女の言葉が思い出されてきた。「もし主人に会ったら言ってやって下さい。あなたは、笑顔がチャーミングなただの人に還るべきだわ」続いて肉を焼く女の言葉が追い掛けて来た。「お人好しな隣人が自分に正直に、正当な取引をすること」

 男は照りつける太陽の下を、砂に足を取られながら歩いている。そのぎこちない歩き方はそのまま男の不器用さを語っているようだった。男が絡み付く砂からやっとの思いで足を引き上げ、一歩踏み出す。男の肚はその踏み出した足を追い掛けるようにして前へ突き出される。さらに男の頭は、その肚の後を慌ててついて行く。そのとき、男の頭は不覚にも遅れを取った者のように、あまりに慌てて転げるようにして肚について行くので、男は大きくバランスを崩してしまう。

 男はぎこちない不器用な足取りで歩き続けながら考えた。「確かに、自分は善き夫を演じているのかもしれない。それは本来の自分ではないかもしれない。しかし、善き夫でない自分もまた自分ではない」「ありのままの自分と言うけれど、ありのままの自分とは、あまりに曖昧だ」「曖昧な自分を追い掛け、自分たろうと努める自分は無意味かもしれない。だが、自分たろうと努めない自分もまた無意味だ」「確かに、自分に正直で正当な取引は望ましい。だが、善き隣人たらんと努める自分もまた正直な自分だ」「いやいや、欲望のほうが正直な自分だろうか…」「正当な取引とはいったいどんなものだろう…。そもそも正当な取引なんてものが可能なのだろうか…」

 しばらくすると砂丘の向こうに、また黒づくめの男たちが姿を現した。黒づくめの男たちは何かを叫んでいる。その声は風に押し返され、砂の粒と化した。男が向きを変え、砂をかき分け進むと、黒ずくめの男たちも砂をかき分け追って来た。 男と黒ずくめの男たちは、昨日と同じように、のろのろレースを開始したのだった。男は時折り後ろを振り返りながら、のろのろ進んでいる。次第に暑さと疲労で男の目がかすんでいく。そのかすんだ視界に黒い塊りがぼんやりと現れてきた。それは黒ずくめの男たちだった。慌てて後ろを振り返るとそこにも黒ずくめの男たちがいた。男は黒ずくめの男たちに挟まれたのだった。やがて、男はすっかり黒ずくめの男たちに取り囲まれた。

 その中のひとりが口を開いた「パスポートを見せろ」。男は勿論パスポートを持ち合わせていなかった。すると今度は、「お前は凡人か、天才か、英雄か、メシアか」と尋問のような口調で問う。男はあまりに思い掛けない尋問に目を大きくし見開きキョトンとした。「オマエはいったい何ものだ」黒ずくめの男は語気を強め、返答を迫った。男は「ぼ、凡人です」と答えた。すると黒ずくめの男は顔色を赤く変え、「オマエを偽称罪で逮捕する」と叫んだ。

 男は訳が分からないまま、混乱し、うわずった声で言った「ぼ、凡人がいけませんか」。黒ずくめの男は声を粗気て言った「当たり前だ。オマエは嘘を言っている」。「いや、私は本当に凡人です。しがない文具のセールスマンにすぎない男です」男は身を屈めながら言った。黒ずくめの男は怒鳴った「まだ嘘をつくか」。 黒ずくめの男は脅すように続けた「いいか、我々は知っているんだ。オマエが日々凡人としての自分の姿を否定していることを。先日オマエはガラス張りのビルに映った自分の姿を見てこう言った『あそこに映っている冴えない中年男はいったい誰だ』と。そんな凡人でないオマエは何ものだ。正体を明かせ」

 男の頭に『凡人』という言葉が幾重にも響いた。「オレは凡人だ。何処からどう見ても凡人だ。オレは間違いなく凡人だ。世間はオレを凡人に分類する。だらか凡人に違いない。オレはいつから凡人なんだ。オレはあるとき凡人になったのか。凡人でなかったオレはいったい何だった…」男の記憶は急に幼子の頃に戻った。そこで男は考えた。「そうだ、オレはそのころ天才だった。英雄だった。神でもあった」

 そこへ黒ずくめの男の声が割り込んだ「そらみろ、オマエはやっぱり正体を偽って生きている」。男はその声にハッとした。そのとき、目の前にいた黒ずくめの男は右手を高く挙げ、そのまま男に向かって振り下ろすと大声で言叫んだ「この男を偽称罪で逮捕しろ!」。男は目の前に迫った危険に対してとっさに身を屈め、黒ずくめの男たちの脚の間から大急ぎで逃げ出した。男と黒ずくめの男たちののろのろレースが再開された。砂丘を照らす陽の光が徐々に赤みを帯びていく。その向こうには海が広がっていた。男は海へ向かった。黒ずくめの男たちは、またもや海に向かった男を追うのを止め、引き上げていった。

 海辺に着くと、そこには小舟が一艘浮かんでいた。小舟の中央にひとつの人影があった。太陽は海に向かって沈んでいこうとしていた。男は、戸惑いながらも小舟が浮かぶ海に近づいて行った。やがて、小舟に立つ人の姿がおぼろげながら見えてきた。男はそこで立ち止まり、目を凝らして見ると、その人は純白のドレスに身を包んだ美しい女だった。男はその顔に見覚えがあった。

 小舟の女は言った「お待ちしておりました」。その女は図書館で出会ったあおの貴婦人だった。女は図書館のときと同じように、八の字を描くような柔らかな身のこなしで男を誘った「どうぞ、こちらへ」。そのしぐさ、その声はまさに美と知性に溢れ、男にとって理想的な女を感じさせた。だが、何故かその女の誘いに男はためらった。

 女はそんな男のためらいに優しく包むような声で言った「貴方がお探しのものを差し上げましょう」。「私の探しもの」男はオウム返しをした。「そうです。貴方がずっと探し求めてきたものです。固い大地に住う多くの賢い人々は決して探そうなどと考えもしないものです」。男は目と耳を凝らしたまま黙っていた。

 女は少し間をおき、僅かなさざ波もたてないようにと細心の注意を払うような繊細な声で、それでいて決して海風に飲まれることのない徹る声で言った「それは貴方の正体です」。男は女のその言葉に、突然暗闇が裂かれたようにハッとした。

 「貴方は気づいていたはずです。来る日も来る日も、まるで自分の眼が自分から離れてあるかのように自分を眺め、その自分の姿の何処かに自分の真の正体の手がかりはないものかと、それこそ目を皿のようにして探しまわっている自分がいることに」女はゆっくりと話しながら、男の目をしっかり捕えていた。

 男は、捕われた目をそのままにして言った「いつの頃からなのか分からないのですが、何故だかそうせざるを得なかったのです。そんなことに何の意味があるのだと思うこともあります。でも、その呪縛から逃れることは私には難しかったのです」。

 「さあ、いらっしゃい。貴方の探しているものは私の中にあるのです」女はそう言うと、その白く細い腕を差し出した。「あぁ、やっぱり貴女だったのですか。貴女なら、きっと答えをお持ちだと信じておりました」男は弾けたように言った。「知と愛と美に満ちたその声、その瞳、その姿、その中にこそ私の求めるべき正体があるというのですね」。男はそう言うと、海に一歩踏み出した。

 太陽はすっかり海に沈んでいた。僅かな残光しかない海は黒いインクのようだった。その黒いインクの海に、小舟はゆらゆらと揺れながら、頼りな気に浮かんでいる。男は迷うことなく黒いインク色の海の中を、小舟に向かって進んでいった。小舟は男の腰の辺りの深さのところに浮かんでいた。女は小舟の上から男に向かって「さあ」と言って手を差し出した。 男は差し出された女の手を取り、残りの手で小舟の端を掴んで舟に上がろうとした。

 そのとき、小舟は呆気無くバランスを崩し、女も男も舟から放り出された。男は海の水で咳き込みながら立ち上がると、急いで女を探した。だが黒いインク色の海面は何も映していなかった。静寂だった。男はしばらく立ち尽くしたあと、ようやく理解した。「女も小舟も幻だったのか」。すると突然足下の地面が抜け落ちたように足場を失い、男は海の底深く引きずり込まれるようにして沈んでいった。

 男の身体はゆっくりと、しかしとどまることなく沈んでいく、男は無抵抗だった。沈みながら男は、自分が黒い海の水と混じり合って溶け出してしまったかのように、自分という存在が曖昧になっていくように思われた。そのとき、男の身体になにか柔らかな甘い香りのする存在が絡みついたように思った。 その柔らかな存在は、男の身体とあっというまに溶け合ってしまったようだった。黒い海に溶けだすように曖昧になっていく自己と世界の境界線。それにつれて五感は、まるで手袋を外して世界に直接触れるときに感じる感覚を取り戻していった。その敏感で繊細な感覚で触れる世界は驚くほど豊かに鮮明になっていく。

 黒い海の中の暗さと明るさ、騒々しいほどの沈黙さのざわめき、黒い水の粒子のひと粒ひと粒、甘さと苦味を含んだ塩辛さ、息苦しいほどにむせるような微生物たちの臭い。さらに、感覚は鮮明になっていき、男は気が狂わんばかりに自分自身を感じていた。突然湧いたようなその強烈な感覚は、男に確信に満ちた期待をもたらした。「今度こそ、ようやく自分と出会える」男はただただその幸福な期待感で胸がいっぱいになった。

 

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