小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

No.4 染み一つない完璧さ、母がどんな人かと聞かれたら

No.4 染み一つない完璧さ、母がどんな人かと聞かれたら 

 

 染み一つない完璧さ、母がどんな人かと聞かれたらそう答えるだろう。母は几帳面な人だった。几帳面と言うより完璧主義者と言った方が正しいかもしれない。いやそれとも少し違う、完璧になりたかった人、あるいは完璧に見られたかった人かもしれない。彼女はダイニングテーブルの端に見つけた黒い小さな染みを眺めながら、そんなことを考えていた。染みはテーブルのところどころにあった。どうやら焦げ跡のようだ。大叔母は何をしていてテーブルを焦がしたのだろう。

 母は良き主婦であり、センスの良い人だった。家はいつも掃除が行き届き、衣服の染みやシワは素早く取り除かれた。染み一つない、シワ一つない装いは、母の持ち前のセンスの良さを一層際立たせていた。母は美しくあることに、美しく見られることに努めた人だった。さらに母は記憶力も良く、人やモノの名前を正確に覚える才能を持っていた。そして正しい人、善き人と評価されることにも拘った。完璧に正しい人、善き人であることは人間にはあまりに困難だ。

 彼女は母と違い、比較的鷹揚でややルーズな質だった。ぼんやりとすることも多く、よく躓く子だった。そんな彼女だから、彼女に対する母の評価はすこぶる悪かった。彼女は自分と母は根本的な何かが違っていると感じていた。

 「自分は誰の血をひいたのだろう」彼女はそんな思いを浮かべながら改めてテーブルに残された焦げ跡を見た。「もしかしたら私は大叔母の血をひいているのかもしれない」彼女は苦笑した。

 

 

「マルタの家」

 

 私には、マリヤという妹がいた。彼女とはもうだいぶ長いこと会っていない。私の手にはかなり使い込んだモップがひとつ、しっかり握りしめられている。今、私の眼は壁を睨んでいる。その壁にはうずらの卵ほどの大きさの灰色のモヤが浮んでいる。「ススだろうか」私はモップで壁のススを退治した。この家は、床も壁も天井も真っ白に磨きあげられている。勿論、私がこの使い込んだモップで磨きあげた。この家がこれほどまでに清潔でいられるのは、ひとえに、私の努力の賜だ。私は人一倍努力している。いや、人の百倍ぐらいだ。つまり、私は四六時中掃除をしてまわっている。

 居間の中央には、四角張ったシェーカー家具のような、質素なダイニングセットが一組。その椅子の座面は堅く、椅子の背はピンと張った背筋のように真っ直ぐに伸び、頭の後までしっかりと届いている。テーブルは、素っ気ないほどシンプルだ。テーブルの上には指紋のひとつすらついていない。寝室には、同じく質素で四角張ったベッドがひとつと、クローゼットがひとつ。クローゼットの中には、白い衣類が整然と並んでいる。

 私はこの静かで、清潔で、整った生活を保つために常に働かなくてはならない。空気は必ず淀むしドレスも必ずシワになる。埃は何処からともなく部屋に侵入してくるしで、油断も隙もあったものじゃない。私はこの家の主人なのか家政婦なのか分からなくなるほどだ。私はこれほどまでに努力している。にも拘らず静かで満ち足りた暮らしはなかなか訪れない。この数年、心が休まるような時を殆ど過ごしていない。神はいったい何時、私に平和と安らぎをくださるというのだ。私は時折り妹のことを思い起こす。彼女の名前はマリヤ。

 ドレスにアイロンを掛ける。シワがすっかり伸びるまで念入りにアイロンを掛けた。ドレスは洗濯する度、アイロンを掛ける度に柔らかな風合いと艶を失い、痛々しく痩せていくように感じる。清潔でシワひとつ無い、痩せたドレスを着る。私はクローゼットの扉の表にはめ込まれた鏡で、自分の全身を映した。ドレスが痩せた分だけ、自分の身体も痩せたように感じた。

 鏡に映った骨張った私の顔、これは私の顔だろうか。妹はどんな顔をしていただろうか。私の白い肌、スレンダーな身体には染みやぜい肉といった無駄なものは決して見当たらない。確か妹の肌はこれほど白くはないが、艶とハリがあった。その身体はほど好くふっくらしていたと思う。最近妹のことがなかなか思い出せない。思い出すのがどんどん困難になっていく。何故かとても大切なものが私からどんどん遠のくようだ。 一番大切なものを失おうとしているのだろうか。気の滅入る不安におそわれる。

 この部屋は静寂だ。そう言えば、妹はよく笑っていた。どんな風に笑っていただろうか。なかなか思い出せない。妹は何故笑ったのだろうか、妹の声はどんな声だっただろうか、妹の名前は、妹の名前は何だったっけ…。

 私は手に持っていたモップを握り直し、床を掃除しはじめた。いつものように床を壁を天井を徹底的に磨きあげ、ドレスを洗濯し、シーツにアイロンを掛け、家具の位置をきっちりと直し、クローゼットの衣類を歪みなく整頓し、食器の曇りを磨きあげる。この家を恥ずかしくない家にするためにやることは山ほどある。

 

エピローグ

 一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へ入られた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。この女にはマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。ところが、マルタは接待のことで忙しく心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてはならないものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」

新約聖書 ルカによる福音第10章)

 

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