小さな物語

日常の中で、ふっと頭に浮かぶイメージや言葉を追いかけていく…、 そこから出来上がる小さな作品です。

No.8 彼女はベランダに出ると飛び切り大きな伸びをし

No.8 彼女はベランダに出ると飛び切り大きな伸びをし 

 

 彼女はベランダに出ると飛び切り大きな伸びをし、朝の新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。体中が喜んでいると感じる。幸せな瞬間だ。空は快晴、朝の静けさの中で聞こえてくるのは鳥のさえずりと風の優しい囁きだけ、完璧な朝だ、ただ一つを除いては。

 彼女が伸びをした目線の先に、雑草に覆われた荒地が広がっている。そこは以前、明らかに何らかの目的で人の手で切り開かれた場所だ。誰がどんな目的でどんなふうに使っていたのだろう。その時そこはどんな風景で、どんな音が、どんな声が聞こえていたのだろう。あるいはどんな実りが大地を彩っていたのだろう。すっかり荒地となってしまった景色からは何も想像できなかった。

 今、世界中で荒地が広がっている。荒地の拡大は緑の大地だけにとどまらず、人々の頭のな中でも、心の中でも起っている。止められない世界の荒廃、負の連鎖がはじまってしまったのだろうか。緑の大地を愛し、平和を愛した人々の苦悩は如何ほどだろうか。そんな彼らに何故、情け容赦なく多くの悪意が、多くの銃が向けられるのか。

 荒んだ世界の空は灰色になり、荒んだ世界の海は毒をたっぷりと吸い込む。灰色の空はその大きな両翼で地球全体を覆う。海は境界を知らず、垂れ流された毒はどこへでも流れ込む。世界は繋がっている。

 彼女は改めて荒地を眺める。彼女にはこの荒地が自分に向かって警戒せよと呼びかけているように思えた。私はいつまでこの豊かで平和な暮らしを続けられるのだろうか。世界を巻き戻す術はないのだろうか、平和を取り戻す術はないのだろうか、人類の進化はこの事態を乗り越えて行けるだろうか。

 そんな彼女の憂鬱に構うことなく、目の前の空は相変わらず雲ひとつなく晴れ渡っていた。

 

 

「瀕死の心臓がひとつ」

 

 世界が枯れていく、荒涼とした砂の大地が見える。砂の大地は何処までも、何処までも果てしがない。黄色みを帯びた白い砂の層が地平線の先へと続く。砂粒は音も立てずにサラサラと、世界の果てへと落ちて行っているようだ。その静寂の大地に赤黒く変色し、艶を失った瀕死の心臓がひとつ、裸のままポツンとある。静寂に耳を澄ませると、それは微かだが音と振動をもっていた。まだ息をしているようだ。

 かつてこの地には静謐な美しさがあった。岩肌にわずかだが苔がむし、岩の隙間からはたくましい雑草が生え、海からの強い風に背を低くしながらも大地と繋がっていた。岩陰や湿り気のある土の中では小さな生き物たちの営みがあり、その頭上には素朴で可憐な花が咲いていた。その美しい大地が消えた。そして今、一切の生き物の存在を許さないほどカサカサ

に乾いた世界が広がり、潤いをなくし粉々に砕かれた生き物たちの残骸が砂と化して大地を覆っている。湿気のない乾いた空気は喉を刺すように刺激する。まるで世界の終わりを見ているようだ。もう手遅れだろうか。

 乾いた風に乗って声がやって来た。「ああ、嵐が来る。大地は人間の毒にやられたのだ。強欲な毒に、傲慢な毒に、怠惰な毒に。そして今、人間が終わろうとしている。嵐が来る」。その声は世界中を旅してきた者の声のようだ。遠くの方に人影が見える。声のした方角だ。彼は死の商人だろうか。大きな荷車を牽いている。かなり重そうだ。車輪が半ば砂地に埋まり荷車が左右に軋みながらゆっくりゆっくり近づいて来る。近くに来ると彼はかなり年を取っていることが分かった。彼は私を見てゆっくりと笑った。彼の瞳は年月の重さと虚さと、悲しみの深さと鋭さを持ち合わせていた。彼は身体をすっぽり覆うような裾の長い上着を着ていた。長い年月を耐え抜いてきた上着は痛々しい綻びをあらわにし、砂埃を浴びてすっかり砂色に染まっている。「ついにここまで来てしまった」彼はそう言って、荷車から手を放し、上着をまさぐり、ポケットからタバコを取り出した。ズダズダになった上着から舞い上がった砂埃が煙幕のように彼を覆った。その煙幕の向こうの彼の口元辺りに赤い火が灯った。

 「まさかこんなことになろうとは私自身思ってもいなかった。いや、いずれこうなるかも知れないと思ってはいたが、まさかその時がこんなに早く来るとは正直思ってもいなかった」彼はそう言うと、これが最後の一服であるかのように時間を掛け、じっくり味わいながら一本のタバコを吸い終えると、指先でつまむのがやっとというほど短くなった吸い殻を名残惜しそうにしばらく眺めてから砂の大地に落とした。砂から僅かに焦げ臭い臭いが立ち上がった。それからゆっくり荷車の後ろに回るとカバーの端をめくり、小さな椅子を取り出した。カバーから砂埃が舞上り、再び彼と荷車は砂埃の煙幕で覆われた。そのとき、荷車のカバーの下から銃口らしきものが見えた。

 彼は取り出した小さな椅子を砂の大地に押しつけるようにして安定させると、その小さな椅子にはやや大きすぎると思われる長身の身体を器用に乗せた。その格好は大人が子供用の椅子に腰掛けているような滑稽さと不自然さと窮屈さでかえって男を不器用な人間として見せることになった。だが彼は椅子の不都合など意にかえさず下を向いたまま言葉を探していた。が、やがて語り出した。

 「崖の下の市の人々の渇きはいっこうに止まない。大地と人々の渇きが止まず、天は嵐の準備を始めたようだ」彼の憂鬱そうな口元からゆっくり綴られた言葉が生き物の気配を感じない砂の大地に虚しく吸い込まれていった。

 「これは争いを好まない人々の銃だ」かれは顎で後ろの荷を指して言った。「争いを好まない彼らはこれを放棄し永遠に葬ろうとしている。私は彼らの銃を預かり安全な場所を探して旅をしてきた。本当に長いこと旅をしているが安住の地が見つからない。そしてついにこんな崖の上まで登って来てしまったが、果たしてここは銃を葬り去るのに安全な地だろうか」彼は地面から視線を上げ私の方を見て言った。その眼はやはり虚だが真っ直ぐ私に向かっていた。「教えてくれないか、ここは銃を持った人間たちが襲いかかってきた時にも、銃を使わずになんとか平穏に暮らしていける智慧が残っているところなのだろうか」

 彼の悲しみに満ちた瞳には悲しみの果てしなさという恐ろしさが感じられる。私は彼に返す答えを持っていなかった。両者の長い沈黙。その沈黙という時間が鎮魂歌を奏でているようだ。その鎮魂歌は砂漠の大地に捧げられたのか、それとも人間の愚かさに捧げられたのだろうか。鎮魂歌が大地いっぱいに広がると突然強い風が吹き、彼と荷車の、その形を保つために繋ぎ止められていた微細で儚げな存在の糸を、一瞬にして彼らから解き放ち、彼らの存在を奪い去っていった。繋ぎを解かれ、ちりぢりになった彼らは砂の粒子となって砂の大地に舞った。

 

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No.7 彼は不格好に膨らんだ黒くて重そうな鞄を手に下げ

No.7 彼は不格好に膨らんだ黒くて重そうな鞄を手に下げ 

 

 彼は不格好に膨らんだ黒くて重そうな鞄を手に下げ、汗を拭きながら苦しそうに歩いている。セールスマンだろうか。あの鞄の中身は何なんだろう。彼女は何気なく想像してみた。まず軽い品では無い、かといって高級な品でも無さそうだ。何故なら彼はいわゆる吊るしのスーツを着、そのスーツは長年着込まれたと思われるような痛々しい痕が見えるたからだ。黒い革靴の底もだいぶすり減っている。

 彼の左手の薬指には指輪が光っていた。彼はどんな家庭を持っているのだろうか、彼が守っている家族とはどんな家族だろうか、彼の家庭生活は幸せなのだろうか、何故だか彼のことが気になった。人の中身は身なりだけでは判断出来ない。世界を変える人はとかく変人であることも多い。さらに普段は地味で目立たない人が危機の時に大活躍することもままあることだ。人の本当の中身はそんな簡単には分からない。ましてや沈黙する人の声はなかなか聴こえてこない。

 こんな田舎での独り暮らしを選択した都会育ちの大叔母だって、本当はどんな人だったのか。彼女の書斎にはそんな疑問を抱かせるだけの量の本が詰め込まれている。人の生活や内面は他人には容易に分からないものだ。おまけに人は自分自身のことすら本当のところは殆ど分からないものだ。なのに困ったことに、自分の本当の声に耳を傾けようとする人はとてもとても少ない…。

 

 

「男は海に向かった」

 

 その日は曇よりした重たい空の朝だった。男は寝室のカーテン越しにその重そうな空を見上げながら、何故かベッドの上で熟睡している妻の体重を想像していた。妻の体重が増すにつれ、彼女の熟睡時間も長くなっていった。

 男はガウンを羽織るとダイニングへ降りていった。お湯を沸かしコーヒーを煎れ、マグカップに注いだ。マグカップは何処にでもあるような個性のない乳白色の厚ぼったいカップだ。香りも味もそこそこのコーヒーを飲みながら食パンを二枚トースターにセットした。男は二階の寝室に戻り、身支度を整えるとまたダイニングへ降りて行き、トースターからパンを取出し、立ったままかぶりついた。時間のたった冷めたトーストはコーヒーと同じように香りも味もそこそこだった。男はコーヒーカップを洗うとまた二階に上がり、相変わらず熟睡している妻の頬にキスをしながら言った。「行ってくるよ」

 妻はその言葉にようやくかすかに意識を取り戻したかのように何かを口籠ったが、またそのまま寝入ってしまった。妻は可愛い女だ。体重は昔よりやや重たくなったものの、その屈託のない可愛さは今も変わりがなかった。ただ妻はあまり家事が得意ではなかった。そして、あまり知的ではなかった。男はそんな妻との結婚を時折り不満に思うこともあった。しかし、男が妻にそんな不満を言ったことは一度もなかった。

 男はオフィスに着くと、同僚たちに挨拶をしながら自分の席に着いた。男は中位の成績のセールスマンだ。男の売る商品はパッとしない文具だった。その色は白と黒、溝鼠色の灰色、それに加えケバケバしい赤青緑黄である。男はその冴えない文具類が詰め込まれた不格好な鞄を抱えてセールスに出た。街には、数えきれない数のフロアを積み上げたガラス張りの高層ビルが至るところにそびえ建っている。 そんなガラス張りの最新のオフィスビルのエントランスに映る自分の姿を見ると、男はいつも思うのだった。「あそこに映っている冴えない中年男はいったい誰だ」。

 男は庶務課の担当者を相手にあれこれと商品の説明をしている。男の口調は流暢というほどではないが、長年経験を積んだ分正確にマニュアルに乗っ取り、こなれた説明をしている。腰を軽く折り、姿勢を低めに落し、目を細め、口数は多からず少なからず、声は大き過ぎず小さ過ぎず。男はマニュアル通りの姿勢でマニュアル通りに商品説明をしながら、意識の半分はここにあらずだった。その半分の浮遊する意識で男は思うのだった「この不格好な男はいったい誰だ」。

 昼休み、男は市内の図書館に寄って読書をするのが楽しみの一つだった。営業のルートもそれに合わせて組み立てている。その日も図書館の入り口脇にあるスタンドカフェで軽い昼食を手短に済ますと、早々図書館の哲学書の書架からお気に入りの本を抜き取り机に向かった。本のタイトルは『嘔吐の向こう側』とあり、かなり分厚く立派なハードカバーの本だった。男が活字の追いかけっこに馴れはじめるころ、男の向かい側の席に決まって現れる婦人がいる。決して若くはないが男よりは十分若かった。その日も婦人は現れ、落ち着きのある淡い紫色のスーツを着、八の字を描くような身のこなしで男の向かい側の席に座った。かすかに甘いグリーンノートの香りが漂った。男にとってその甘さを押さえた上品な香りのする婦人はまさに理想の女性だった。

 男が顔を上げると婦人はいつものように知的な眼差しに親愛の情と尊敬を込め男に挨拶するのだった。実際会話を交わしたことがないので、本当のところ親愛の情と尊敬を与えられたのかどうかは定かでないが、男には確信に近い事柄としてそう思えるのだ。そのとき、男の心臓は急に働き者になり、全身を若返らせる。そして、男にはこれこそ自分の本来あるべき姿だと思うのだった。男は真剣に本に熱中しているかのように目を皿のようにし、時折り眉間にシワを寄せ、片手を額に当てるポーズをとる。昼休みが終わり、図書館を出た男の背中は以前よりピンと伸び、顎はやや上を向いていた。

 その晩、男には友人との待ち合わせがあった。先日、いつものことだが友人はまた夫婦喧嘩をしたと愚痴ってきた。夫婦喧嘩といっても何処にでもある些細な出来事である。 だが友人が言うには、その日はよっぽど妻の虫の居所が悪かったらしく彼女の機嫌はなかなか治まらなかったので、仕方なく彼女のご機嫌を取るため、美味しいものでも食べに出かけようと言うことになった。そして彼女の提案でその食事会に男の夫婦が呼ばれることになったのだ。なぜか男は友人の夫婦喧嘩の中和剤として時折り食事に誘われる。

 その日、男と友人は女達より早く待ち合わせのカフェに着いた。友人はやって来るなり早々早口で喋り出した。彼の愚痴話しが大方すんだ頃、妻たちが待ち合わせたかのようにふたり揃ってやってきた。友人の妻は淡いグリーンのスーツを着、男の妻の方はやわらかなオフホワイトの地にピンクの花柄のワンピースを着ている。ふたりは大の仲良しだとでもいうように腕を組み、顔を見合わせながら楽しそうに笑っている。

 四人はレストランに場所を変え、白いテーブルクロスが掛かり、ろうそくの灯った食卓で食事をした。妻たちは散々亭主の愚痴を言い、ドレスとバックとダイヤモンドとフォアグラとキャビアとオマール海老の話しをし、終始ご機嫌だった。いよいよデザートに差し掛かろうという頃、友人の妻が言った。「お宅の旦那様は結婚した頃と少しもお変わりないわねえ。いつまでもスマートで、家の旦那ときたら、ほら、このとおり」と言いながら友人のお腹を突っついた。そのお腹は見事なビール腹だった。友人は大食漢であり酒豪であり甘党でもあった。その日も浴びるように飲んで食べていた。

 妻たちは、そのお腹をからかうとダイエットの話で盛り上がり、最後には甘いものの至福について語った。そこへむせるような甘い香りとともに、デザートが運ばれて来た。男の妻には苺のミルフィーユが、さんざん迷った友人の妻にはシェフお勧めのケーキの盛り合わせとフルーツの盛り合わせが、そして友人には生クリームたっぷりの苺パフェとマロンタルトのアイスクリーム添えチョコレートシロップ掛けとプリンアラモードが用意された。友人の妻はその夫の無謀なデザートを非難めいた目で眺めていたものの、直に自分のスプーンでそのパフェに手を延ばした。男はその光景をブラックコーヒーをすすりながら眺めていた。

 皆がデザートをすっかり平らげ、いよいよお開きというころ、男はウエイターを呼んで会計を頼んだ。会計を済ませ、外へ出ると清々しい風が鼻先を撫でるように男の前を通り過ぎた。女たちはご機嫌で、友人はたいそう満足そうだった。男はその光景を見ながら一応の満足はしたものの、何かが不満だった。男は薄くなった財布を上着のポケットにしまいながら思った「オレは満足したのだろうか」。だが、そんな男の顔には満面の笑みがあった。

 友人は会計の半額を金額を男に差し出しながら言った「お蔭で、妻もすっかり満足したようだ。本当にお前は善い奴だ」。友人は男を両腕で抱き締めた。 友人の口元にはデザートの生クリームが、剃り残しのシェービングクリームのように付いていた。そのクリームは抱きついた弾みで男のスーツの肩に擦り付けられた。愉快とは言えないこの状況で、男は尚もお人好しお決まりの笑顔をつくりながら心の中で思うのだった「オレはこれでいいのか」。

 翌朝、男はいつもより少しばかり遅く起きた。朝の忙しい時間は僅かな時間のロスもスケジュールにひびく。男はベッドから飛び起きカーテンを開けに行った。その日も曇よりした空だった。妻の今朝の眠りは夕べのワインのせいか、それともデザートのせいかは分からないが、いつもよりいっそう深かった。大急ぎで朝食と支度を済ました男は、出かけにポストから新聞を抜き取って小脇に挟み、ポストの中を覗いて男宛ての郵便物だけを掴んで鞄に放り込むとそのまま出社した。

 その日も男はいつものように不格好な鞄を持って一日中セールスに歩きまわり、夕方帰社した。オフィスの席で書類を整理していると、今朝鞄に放り込んで来た郵便物に気が付いた。郵便物はいつもの通り殆どが派手な封筒のダイレクトメールで、そのうちの幾つかは地味な色の封筒の請求書だった。その中の特に地味な灰色の再生紙封筒がひとつ目に付いた。差出し人を見ると、それは裁判所からだった。「裁判所…、いったいなんだろう。」そう言いながら封筒を開けると、それは妻からの訴えによる、召喚状だった。男は妻から『不誠実の罪』で訴えられたのだった。男には訴えられる心当たりはなかった。男はとにもかくにも、急いで家に帰った。

 家に帰ると妻はいなかった。ダイニングのテーブルにも、寝室のドレッサーの前にも置き手紙らしきものはなかった。外へ出て郵便ポストをあさると、そこにはまた男宛てのくすんだ色の再生紙封筒があった。差出し人はやはり裁判所だった。開封してみると、それは友人からの訴えによる召喚状だった。友人は『不正取引の罪』で男を訴えていた。男にはまったく覚えがない。ましてや、友人とは昨夜食事をして楽しく過ごしたばかりじゃないか。そのとき友人に変わった様子は何もなかった。少なくとも男にはそう思えた。

 男が混乱した頭を抱えて立ちつくしていると、そこへ見知らぬ黒づくめの男たちがやって来た。その中の一人が男の目の前に黒い表紙の手帳をかざし、立ちはだかった。その手帳には金色の文字で『国家安全秘密警察』とあった。男は驚きながら手帳越しに黒づくめの男たちを見ると、全員髪をオールバックになで付け、薄型の尖ったデザインの黒いサングラスを掛け、細身のブラックスーツを着ていた。その数は男ひとりに対して、明らかに不利な人数だった。男は口ごもりながらもなんとか質問した「いったい何のご用でしょう」。

 すると、黒づくめの男がかざしていた手帳を懐に納めると、今度は一枚の書状を両手で男の目の前に突き付けるようにかざし、高圧的な声で言った。「オマエを偽称罪で逮捕する」男はあまりの唐突な展開と、怪し気な黒づくめの男たちに囲まれた恐怖とで、目の前が真っ白になった。次の瞬間、男は事態の確認をする余裕も無くとっさに行動を起こしていた。男は玄関を思いっきり閉め鍵を掛けた。外では黒づくめの男たちが玄関を開けようとドアを荒っぽくガタガタといわせている。男は急いでキッチンの脇の裏口から狭い裏庭を通り抜けると走り出した。町の中心街に向かって走りながら後ろを振り向くと、黒づくめの男たちは脇を絞め、機関車のように素早く腕を振りながら追い掛けて来る。男は身に覚えのない罪で負われる身となっていた。

 街一番の繁華街に逃げ込もうとしたとき、前方から突然黒づくめの男たちが現れた。男は慌てて方向転回し、右へ左へと逃げまどいながら、中心街から遠ざかっていった。町外れまで来たとき、海へ向かう標識が見えて来た。男は海に向かって走った。その海は一度も訪れたことがない海だ。その海には魔物が出ると町では噂され、誰も近寄りたがらない所だった。

 海の手前には大きな砂丘がある。その砂丘の中程まで行くと、その向こうに海が見えてきた。そこで男が後ろを振り返ると、黒づくめの男たちは、そこで立ち止まり男を口惜しそうに眺めていた。男は魔物が出るという海を後ろ楯に、黒づくめの男たちを正面に見据えて立った。やがて黒づくめの男たちは追跡をあきらめ引き上げていった。海の向こうには夕暮れの太陽が沈もうとしていた。

 男は黒づくめの男たちを見送ると、そのままそこに座り込み、海に沈む夕日を眺めていた。陽はどんどん暮れていく。湿気を含んだ海風が男の体に冷気を運んで来た。男は帰る当ても行く当てもないまま冷気に身をさらしていた。どのくらいそうしていただろうか、気が付くと、夕闇の海を従えた砂丘の裾にポツリポツリと灯りが灯り始めた。男は灯りを頼りに歩き出した。そうしてひとつの灯りの前まで立ち止まった。それは古びた小さな小屋の灯りだった。男はドアをノックした。しばらくすると中から黒いベールをまとった女の顔が覗いた。女は男の顔を見るとためらいもなくドアを開け男を招き入れた。

 小屋に入るとすぐ正面には古びた食卓のテーブルと二脚の椅子が向い合せにあり、奥にはささやかな炊事場と、その右手には小さな食器棚が一つ、そして部屋の左手には質素な麻のカバーの掛かったベッドが一つあった。ベッドの端には花柄のドレスが掛けられている。女は上から下まで全身黒の装いだった。女は男をダイニングの椅子に腰掛けるように勧めるとくるりと向きを変え、まるで病弱な身体を引きずるような足取りで炊事場に向かった。その炊事場には何の変哲もないありふれた乳白色の厚ぼったいコーヒーカップが二つと、同じように乳白色の厚ぼったい皿が二組と、アルミのフォークとスプーンが二組あるのが見えた。

 男は思った「あのコーヒーカップはオレの家にあるのとそっくりだ」。女はその乳白色の厚ぼったいコーヒーカップにコーヒーを注いで男に差し出し、男の正面の椅子にうつ向きかげんで座ると、そのまま黙ってしまった。男は黙ったままの女を前に、コーヒーをすすっていた。そのコーヒーはいったい何年前に挽いた豆なのかと思いたくなるほどカビ臭かった。それでも、海風にさらされ冷えきっていた男の身体を幾分かは温めてくれた。黒いベールの奥で相変わらず黙っている女に男は聞いてみた「失礼ですが、ご亭主を亡くされたのですか」。女はやっと聴き取れるような小さな声で応えた。「いいえ、主人は死んでなどいませんわ。ただ、どんどん姿がかすんでいるだけなのです」。男は「姿がかすむというのはどういうことか」と問いたかったが、何故かためらって止めた。するとそれを察したかのように女が話し出した。

 「主人が生きていることはこの腰に付いた錘りで分かりますの」そう言うと女は黒いドレスの裾から直径20センチもあろうかという重そうな鉄の玉のようなものを引きずり出した。その錘りは女の細い腰の辺りにしっかりと鎖で括られていた。男は目を見張ったが、女の説明を待った。女は男を見て以前よりやや声に力が付いたように話し出した。「主人は善い夫です。でもそれがいけないのです。善い夫であり続けたために、私の前で主人の姿はどんどんかすんでいきました。今ではほとんど見えなくなってしまいました。もういけませんわ」そこで女は溜め息を一つ吐いた。それからまた視線を落として言った。

 「このコーヒーカップも昔は鮮やかな花模様のカップでした。結婚したときに二人で揃えたお気に入りのカップだったのです。そのころ主人はまだ善き夫ではなく、笑顔がチャーミングなただの人だったのです。それが、だんだんと善き夫になるにつれ、主人の輪郭が擦れ、花模様も擦れていきました。主人の姿が消えてからというもの、食器の花模様が消え、食卓から会話が消え、生活の全てがすっかり味気ないものになっていました。気が付くと着ていたドレスの色も失せ、悲しみの黒に変わっていました」

 女は黒いドレスの右左それぞれの袖口を寂しそうに眺めると、視線を腰へ落とし、さらにその下の錘りへと落とした。視線を落としたまま女は言った。「主人は笑顔がチャーミングなただの人のままで、十分善い夫だったのです。事の始まりは曇よりしたある日のことです。その日主人はまだチャーミングなだたの人でした。ただ少しばかり元気がなかっただけなのです。いいえ、本当はかなり元気がなかったのです。人間ですもの元気のない日もありますわ。そこへ私がいつものように幸せな顔で現れたので、主人はいつもと変わりない素敵な笑顔と愛の言葉をくれました。でもそれは何処からか借りてきたような善き夫の笑顔でした。そのとき、主人の中で何かがズレてしまったようなのです。それ以来、主人は自分の中のズレを戻せず、いつも自分の振る舞いに違和感を感じるようになったのです。その違和感が錘りとなって私の腰に巻き付いているのです。錘りは主人が善い夫を演じる度、大きくなっていきます。今でも腰の錘りは日々育っていますわ。だから夫の姿が見えなくてもどこかで善い夫を演じているのが分かりますの。もし夫に会ったら言ってやって下さい。あなたは昔のような笑顔がチャーミングなただの人に還るべきだわと」

 女は話し終わると、幾分重荷が軽くなったとでも言うように、大きく息を吐いた。それから女は以前よりいくらか軽い足取りで炊事場に立ち、以前花模様があったという白無地の皿にハムとチーズのサンドイッチを用意して男に差し出した。男がささやかな夕食を終えると女はベッドと整え男にここに寝るように言った。女はベッドの端に掛かっていた花柄のドレスを取り上げると、椅子の背に丁寧に掛け直した。そのドレスは質素な部屋の中で、唯一の華やいだ存在だった。それはまるで、女にも華やいだ思い出があったことの証のように思われた。そのオフホワイトの地に鮮やかなピンクの花柄のドレスに、男は見覚えがあった。

 その晩、男は夢を見た。陽の照りつける砂丘をピンクの花柄のドレスを着た女が歩いている。男はその後を砂に足を取られながら着いていく。男の腰には錘りが巻き付けられている。男はかなり体力を消耗し、すっかり息が上がっている。汗だくになりながら肺はゼイゼイいっている。やがて、男は息苦しさのあまり気を失った。目が覚めると男の身体は半分ほど砂丘に埋まっていた。空には太陽が高々と昇り、目の前には海と砂丘が広がっている。昨夜の小屋と女は消えていた。

 男は砂から這い出し、体中の砂を払い落とすと、辺りを見回した。そこには海と空と砂以外には何もなかった。男は海岸線に沿って砂丘を当てもなく歩いた。しばらくすると砂丘の向こうに動く黒い点を発見した。黒い点は数を増しながら近づいて来る。やがて動く黒い点は急速にその正体を現した。それは黒づくめの男たちだった。彼らはブラックレインコートとブラックレインハットを被って再び男の前に現れたのだった。

 男は慌てて向きを変え逃げ出した。隠れるもののまったくない砂丘での逃走はかなり厳しい。男はひたすら走り続けるしかなかった。しかし、砂丘での逃走は砂に足をとられ、スピードが上がらない。それは幸い黒づくめの男たちも同じだった。男と黒づくめの男たちはのろのろレースを延々と続けた。やがて海面に赤みの増した陽の光が反射しはじめると、黒づくめの男たちは急に足を止め、昨日と同じように口惜しそうに口を歪めると、男の追跡をあきらめて引き上げていった。 男は荒い息を吐き出しながら安堵して砂丘に転がった。

 夜になるとまた砂丘に小屋の灯りがポツリポツリと灯りだした。男はしばらく考えたが、今夜も小屋に泊めてもらう意外になかったので、昨日とは違う小屋を探してノックした。小屋から出て来たのはまたも女だった。女は男の顔をまじまじと見ると複雑な微笑みをつくって言った「あなたはお人好しな隣人?」。男は唐突な質問に口を開けただけだった。女は半開きのドアにもたれ掛かったまま続けた。「困ったわねえ。お人好しな隣人という人たちはいつだって善き隣人なんだから」。男は女の話しの意味が分からなかった。男は何と答えたら好いものかと困っていると、女はドアを開け男を招き入れた。

 その小屋のカーテンは柔らかなイエローグリーン色をしていた。ベッドには同じくイエローグリーンのキルトのカバーが掛かっている。キルトのモチーフには木の実やフルーツが用いられていた。ベッドには5歳ぐらいの子供の大きさほどあるクマの縫いぐるみが一つ置かれていた。クマの縫いぐるみは大げさな真っ赤な蝶ネクタイをしていた。女は丁度夕食の支度をしているところのようだった。テーブルには二人前のディナー皿とフォークとナイフがセッティングされていた。

 女は少しふっくらしたお腹を揺らしながら台所に立った。その台所は昨夜の女の簡素な炊事場とは違い、食べ物と家電で溢れていた。女はタマネギと人参とをミキサーにかけ、直径50センチもありそうな大きなボールに移した。つづいて何キロあるのか分からないような大きな肉の塊をミンチにして、タマネギと人参の入ったボールに入れた。そこへ生卵十個とパン粉を大量に入れると勢いよくこねはじめた。それは相当に大変な作業に違いない。男は手伝いをかって出ようかと考えたが、女には男など眼中にないと言ったふうだったので、仕方なく男は黙ってテーブルの椅子に座ったままその作業を見守っていた。女は汗だくになりながらも手を休めることなく延々とこね続けた。その女の脇ではオーブンがごうごうと燃えていた。

 女はひき肉をいったいどのくらいこね続けただろうか。男は気になってベッドの上に掛かっている時計を見た。時計の針は夜の7時を指していた。女はそれからまだ10分もひき肉をこねた。女はようやくひき肉をこね上げた満足感で両腕を腰にあて大きく深呼吸をすると、そのひき肉を拳大に丸めはじめた。半分ほど丸め終わったころ、女は思い直したように全てを一つにまとめあげ直した。その大きな塊をオーブン皿に納めようと試みたが、大きすぎて納まらなかった。仕方なくまた二等分して小判型にまとめあると、オーブンの上段下段に一つづつ納めた。女は火加減を見てオーブンの蓋を閉めた。時計は8時になろうとしている。

 次に女は長さ90センチほどあるバケットをザクザクと切るとカゴに入れて食卓の中央に置いた。続いて台所にゴロゴロと転がっている果物を適当に次々とカットすると大きなコンポートに盛って食卓に置いた。食卓は急に華やかになった。女は休む間もなく冷蔵庫から巨大なカボチャのプリンを取り出し、プリンを覆い隠すよにたっぷりの生クリームで飾りつけ、さらにその上にピスタチオを散らした。そのデザートをテーブルの上に置くとテーブルはほぼいっぱいになった。後は肉が焼けるのを待つだけだった。女は賑やかになった食卓を前に、ようやく椅子に腰掛けた。時計は8時半を回っていた。

 空のディナー皿を前に、肉の焼き上がりを待つ女と男は無言のまま向かい合った。女の視線は時折ベッドの上の時計へと注がれる。「女は亭主の帰りを待っているのだろうか、それとも肉の焼き上がりを待っているのだろうか」男はそんな疑問を押し殺したまま黙っていた。時計は9時を回ろうとしている。男の口はすっかり渇いていた。男はついに渇いた口を開いて女に聞いてみた。「あの、失礼ですがご主人は?」

 女はその質問に驚いたように目を丸くし、「主人ならそこに居りますわ」と言うとベッドに視線を移した。そこには大きな縫いぐるみのクマがあるだけだった。男は申し訳無さそうにもう一度聞いた。「あのぉ、どちらに」。女は「ですから、そこに」と言うと、今度はハッキリとベッドを指差した。そこにはやはりクマがいるだけだった。ベッドはきちんと整えられており、とても人が寝ているようには思えなかった。男は納得しないまま言った。「ご主人はご病気ですか?」

 女は急に眉毛を下げ、憂鬱そうな表情をつくって言った。「そうなの。実はね、一昨日の晩、お人好しな隣人がまた疑問を抱いてしまったみたいの」。女は身を乗り出し、さらに言った「お蔭でお人好しな隣人の隣人だった主人は大変なことになっているの」。身を乗りだした女の顔は男の顔の目の前にあった。女は今度は急に笑顔をつくって言った、「そんなことより、お肉の焼け具合が気になるわね」。女はベッドの上の時計をちらっと見て「あのお肉はそう簡単には焼き上がらないの。結構頑固なのよ」女はそう言うとまた椅子に座り直し、男と向かい合った。

 男は意味不明な女の会話に対して恐る恐る尋ねた。「あのぉ、お人好しな隣人の疑問が何か不都合でも?」。女は目をむくような表情をつくって言った「大有りよ。お人好しな隣人は隣人に右のポケットの中のパンを差し出すと、左のポケットの中のパンも差し出さなければならないと思っているの。でも、時折りこれでいいのかって疑問に思うの。疑問は時として不満になるものだわ」。男は意味不明な話を黙って聞いていた。

 女はそこでベッドの上のクマをちらっと見て言った「お人好しな隣人の隣人だった主人は、先日お人好しな隣人から右のポケットの中のパンを貰ったの。だから主人はお返しに生クリームをあげたらお人好しな隣人は左のポケットの中のパンもくれたわ。でも、お人好しな隣人は生クリームが好きではなかったみたいなの。だからお人好しな隣人はまた疑問に思ったの。『これでいいのか』って。お蔭で可哀想に、主人の首には”お人好しな隣人の不満”という札の付いた時限爆弾が巻き付いてしまったの」。

 男は相変わらず意味不明な女の話しに少しうんざりしていた。それより、肉の焼け具合の方が気になっていた。だが、男は同情に満ちた顔をつくりながら言った「それは何んとお気の毒に。ご主人を助ける方法はないのですか。何か私で出来ることがあれば…」。勿論、男はそんな現実味のない話に本気で言ったわけではない。ただそう言わなければならない、それが人としての務めだと思っただけだった。

 と、その時、部屋の中でカチと大きな音がした。そして女が言った「また時限爆弾の針が進んでしまったわ。お人好しな隣人が心にもないことを言う度に時限爆弾の針がひとつ進むのよ」。男は何故か分からないがその言葉に狼狽した。音はベッドの方から聞こえてきた。そこには例の大げさな真っ赤な蝶ネクタイをしたクマの縫いぐるみが居る。男はその蝶ネクタイが急に気になりだした。

 女はそんな男の顔をじっと見つめてから真面目な顔で言った「主人を助ける方法は一つだけあるわ。それは、お人好しな隣人が自分に正直に、正当な取引をすること。でもそれは、駝鳥が空を飛ぶより難しいことだわ」。女の言葉は不快なほど威厳と自信に満ちていた。

 時計の針は十の辺りで重なろうとしていた。その時計の下では例のクマが表情一つ変えず座っている。男がその大げさな真っ赤な蝶ネクタイをじっと見入っていると、かすかにチッチッとう音が聞こえてくる気がした。それは確かに蝶ネクタイから聞こえてくるようだった。

 「あなた、お腹空かない。早くお肉焼きあがらないかしら」女はいつもの日常の会話に戻っていた。男はその女のあっけらかんとした変わり様に驚いたが、正直、男も居るのか居ないのか分からないような亭主のことなどもうどうでもよいと思った。女は本当に肉の焼き上がりを待ちかねているようだったが、何故か焼き加減を見に行く素振りが一向に見られない。だが、男はどうしても自分から早く肉が食べたいとは言い出せなかった。女と男はテーブルを挟んで座ったままじっと我慢し続けた。やがて、男は空腹のあまり座ったまま眠ってしまった。

 朝になると、また男は砂丘の上で目を覚ました。女も小屋も消え、男は再び何もない砂丘に放り出されていた。そこは砂と空と海だけの世界だった。たった独りになった寂しさと開放感の間で宙ぶらりんな気分に浸っていると、腰に錘りを付けた女の言葉が思い出されてきた。「もし主人に会ったら言ってやって下さい。あなたは、笑顔がチャーミングなただの人に還るべきだわ」続いて肉を焼く女の言葉が追い掛けて来た。「お人好しな隣人が自分に正直に、正当な取引をすること」

 男は照りつける太陽の下を、砂に足を取られながら歩いている。そのぎこちない歩き方はそのまま男の不器用さを語っているようだった。男が絡み付く砂からやっとの思いで足を引き上げ、一歩踏み出す。男の肚はその踏み出した足を追い掛けるようにして前へ突き出される。さらに男の頭は、その肚の後を慌ててついて行く。そのとき、男の頭は不覚にも遅れを取った者のように、あまりに慌てて転げるようにして肚について行くので、男は大きくバランスを崩してしまう。

 男はぎこちない不器用な足取りで歩き続けながら考えた。「確かに、自分は善き夫を演じているのかもしれない。それは本来の自分ではないかもしれない。しかし、善き夫でない自分もまた自分ではない」「ありのままの自分と言うけれど、ありのままの自分とは、あまりに曖昧だ」「曖昧な自分を追い掛け、自分たろうと努める自分は無意味かもしれない。だが、自分たろうと努めない自分もまた無意味だ」「確かに、自分に正直で正当な取引は望ましい。だが、善き隣人たらんと努める自分もまた正直な自分だ」「いやいや、欲望のほうが正直な自分だろうか…」「正当な取引とはいったいどんなものだろう…。そもそも正当な取引なんてものが可能なのだろうか…」

 しばらくすると砂丘の向こうに、また黒づくめの男たちが姿を現した。黒づくめの男たちは何かを叫んでいる。その声は風に押し返され、砂の粒と化した。男が向きを変え、砂をかき分け進むと、黒ずくめの男たちも砂をかき分け追って来た。 男と黒ずくめの男たちは、昨日と同じように、のろのろレースを開始したのだった。男は時折り後ろを振り返りながら、のろのろ進んでいる。次第に暑さと疲労で男の目がかすんでいく。そのかすんだ視界に黒い塊りがぼんやりと現れてきた。それは黒ずくめの男たちだった。慌てて後ろを振り返るとそこにも黒ずくめの男たちがいた。男は黒ずくめの男たちに挟まれたのだった。やがて、男はすっかり黒ずくめの男たちに取り囲まれた。

 その中のひとりが口を開いた「パスポートを見せろ」。男は勿論パスポートを持ち合わせていなかった。すると今度は、「お前は凡人か、天才か、英雄か、メシアか」と尋問のような口調で問う。男はあまりに思い掛けない尋問に目を大きくし見開きキョトンとした。「オマエはいったい何ものだ」黒ずくめの男は語気を強め、返答を迫った。男は「ぼ、凡人です」と答えた。すると黒ずくめの男は顔色を赤く変え、「オマエを偽称罪で逮捕する」と叫んだ。

 男は訳が分からないまま、混乱し、うわずった声で言った「ぼ、凡人がいけませんか」。黒ずくめの男は声を粗気て言った「当たり前だ。オマエは嘘を言っている」。「いや、私は本当に凡人です。しがない文具のセールスマンにすぎない男です」男は身を屈めながら言った。黒ずくめの男は怒鳴った「まだ嘘をつくか」。 黒ずくめの男は脅すように続けた「いいか、我々は知っているんだ。オマエが日々凡人としての自分の姿を否定していることを。先日オマエはガラス張りのビルに映った自分の姿を見てこう言った『あそこに映っている冴えない中年男はいったい誰だ』と。そんな凡人でないオマエは何ものだ。正体を明かせ」

 男の頭に『凡人』という言葉が幾重にも響いた。「オレは凡人だ。何処からどう見ても凡人だ。オレは間違いなく凡人だ。世間はオレを凡人に分類する。だらか凡人に違いない。オレはいつから凡人なんだ。オレはあるとき凡人になったのか。凡人でなかったオレはいったい何だった…」男の記憶は急に幼子の頃に戻った。そこで男は考えた。「そうだ、オレはそのころ天才だった。英雄だった。神でもあった」

 そこへ黒ずくめの男の声が割り込んだ「そらみろ、オマエはやっぱり正体を偽って生きている」。男はその声にハッとした。そのとき、目の前にいた黒ずくめの男は右手を高く挙げ、そのまま男に向かって振り下ろすと大声で言叫んだ「この男を偽称罪で逮捕しろ!」。男は目の前に迫った危険に対してとっさに身を屈め、黒ずくめの男たちの脚の間から大急ぎで逃げ出した。男と黒ずくめの男たちののろのろレースが再開された。砂丘を照らす陽の光が徐々に赤みを帯びていく。その向こうには海が広がっていた。男は海へ向かった。黒ずくめの男たちは、またもや海に向かった男を追うのを止め、引き上げていった。

 海辺に着くと、そこには小舟が一艘浮かんでいた。小舟の中央にひとつの人影があった。太陽は海に向かって沈んでいこうとしていた。男は、戸惑いながらも小舟が浮かぶ海に近づいて行った。やがて、小舟に立つ人の姿がおぼろげながら見えてきた。男はそこで立ち止まり、目を凝らして見ると、その人は純白のドレスに身を包んだ美しい女だった。男はその顔に見覚えがあった。

 小舟の女は言った「お待ちしておりました」。その女は図書館で出会ったあおの貴婦人だった。女は図書館のときと同じように、八の字を描くような柔らかな身のこなしで男を誘った「どうぞ、こちらへ」。そのしぐさ、その声はまさに美と知性に溢れ、男にとって理想的な女を感じさせた。だが、何故かその女の誘いに男はためらった。

 女はそんな男のためらいに優しく包むような声で言った「貴方がお探しのものを差し上げましょう」。「私の探しもの」男はオウム返しをした。「そうです。貴方がずっと探し求めてきたものです。固い大地に住う多くの賢い人々は決して探そうなどと考えもしないものです」。男は目と耳を凝らしたまま黙っていた。

 女は少し間をおき、僅かなさざ波もたてないようにと細心の注意を払うような繊細な声で、それでいて決して海風に飲まれることのない徹る声で言った「それは貴方の正体です」。男は女のその言葉に、突然暗闇が裂かれたようにハッとした。

 「貴方は気づいていたはずです。来る日も来る日も、まるで自分の眼が自分から離れてあるかのように自分を眺め、その自分の姿の何処かに自分の真の正体の手がかりはないものかと、それこそ目を皿のようにして探しまわっている自分がいることに」女はゆっくりと話しながら、男の目をしっかり捕えていた。

 男は、捕われた目をそのままにして言った「いつの頃からなのか分からないのですが、何故だかそうせざるを得なかったのです。そんなことに何の意味があるのだと思うこともあります。でも、その呪縛から逃れることは私には難しかったのです」。

 「さあ、いらっしゃい。貴方の探しているものは私の中にあるのです」女はそう言うと、その白く細い腕を差し出した。「あぁ、やっぱり貴女だったのですか。貴女なら、きっと答えをお持ちだと信じておりました」男は弾けたように言った。「知と愛と美に満ちたその声、その瞳、その姿、その中にこそ私の求めるべき正体があるというのですね」。男はそう言うと、海に一歩踏み出した。

 太陽はすっかり海に沈んでいた。僅かな残光しかない海は黒いインクのようだった。その黒いインクの海に、小舟はゆらゆらと揺れながら、頼りな気に浮かんでいる。男は迷うことなく黒いインク色の海の中を、小舟に向かって進んでいった。小舟は男の腰の辺りの深さのところに浮かんでいた。女は小舟の上から男に向かって「さあ」と言って手を差し出した。 男は差し出された女の手を取り、残りの手で小舟の端を掴んで舟に上がろうとした。

 そのとき、小舟は呆気無くバランスを崩し、女も男も舟から放り出された。男は海の水で咳き込みながら立ち上がると、急いで女を探した。だが黒いインク色の海面は何も映していなかった。静寂だった。男はしばらく立ち尽くしたあと、ようやく理解した。「女も小舟も幻だったのか」。すると突然足下の地面が抜け落ちたように足場を失い、男は海の底深く引きずり込まれるようにして沈んでいった。

 男の身体はゆっくりと、しかしとどまることなく沈んでいく、男は無抵抗だった。沈みながら男は、自分が黒い海の水と混じり合って溶け出してしまったかのように、自分という存在が曖昧になっていくように思われた。そのとき、男の身体になにか柔らかな甘い香りのする存在が絡みついたように思った。 その柔らかな存在は、男の身体とあっというまに溶け合ってしまったようだった。黒い海に溶けだすように曖昧になっていく自己と世界の境界線。それにつれて五感は、まるで手袋を外して世界に直接触れるときに感じる感覚を取り戻していった。その敏感で繊細な感覚で触れる世界は驚くほど豊かに鮮明になっていく。

 黒い海の中の暗さと明るさ、騒々しいほどの沈黙さのざわめき、黒い水の粒子のひと粒ひと粒、甘さと苦味を含んだ塩辛さ、息苦しいほどにむせるような微生物たちの臭い。さらに、感覚は鮮明になっていき、男は気が狂わんばかりに自分自身を感じていた。突然湧いたようなその強烈な感覚は、男に確信に満ちた期待をもたらした。「今度こそ、ようやく自分と出会える」男はただただその幸福な期待感で胸がいっぱいになった。

 

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Appleと林檎

都会育ちだった女性が、大叔母の残した田舎家に引っ越してきた。そんな彼女のささやかな日常と、曖昧な意識の向こう側からやってくるイメージや言葉が導く、非日常の世界、不可解な世界の二重構造です。

 

「アップルと林檎」

No.1 彼女の小さな家の二階の北側に

No.2 村人はまだ彼女によそよそしく

No.3 書斎に残された大叔母の大量の本を眺めている

No.4 染み一つない完璧さ、母がどんな人かと聞かれたら

No.5 夜も更け、田舎の静けさは一層深まっていた

No.6 散歩の途中で見つけたその店は

No.7 彼は不格好に膨らんだ黒くて重そうな鞄を手に下げ

No.8 彼女はベランダに出ると飛び切り大きな伸びをし

No.9 道の向こうに小さな小屋ひとつ分もありそうな大きな岩が

No.10 陽だまりの中、無心の目を輝かせた男の子たちが

No.11 田舎の夜道に靴音は響かなかった

No.12 彼女はいつものように、村の食料品店で

No.13 南に面したテラスからの眺めは開けていた

No.14 その日は何故か朝早く目が覚めた

No.15 秋風の心地良い頃に彼はやって来た

 

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No.6 散歩の途中で見つけたその店は

No.6 散歩の途中で見つけたその店は

 

 散歩の途中で見つけたその店は、一坪にも満たない小さな店だった。そこで売られていたのは中身がたっぷり詰まったサンドイッチだ。それを作っているのは愛想が良く、少しふくよかなお腹をした初老の女将だった。女将はこの店を母から受け継いだと言った。だとしたら大叔母もここのサンドイッチを食べていたかも知れない。そう思うと彼女は、これは食べないわけにはいかないと思った。

 サンドイッチを買って帰ると、彼女は早々にテラスのテーブルにサンドイッチとお茶を準備した。空は快晴、風は穏やか、絶好のランチ日和だ。早る心を押さえながらサンドイッチの包み紙を開けると、現れたのは厚さ8センチもありそうなサンドイッチだった。パンに挟まれた具材は幾つもの層をつくり、実に彩りが豊かだった。彼女は大きな口を開け、ボリュームたっぷりな分厚いサンドイッチをガブリとかじった。

 口の中で甘さ、辛さ、酸味、苦味、旨味が、一気に広がっていった。多彩で複雑な味が、幸福感を生み出す脳を刺激する。彼女は複雑な味の正体を確かめようと、今度は具材の一つひとつを丁寧に味わった。どれもがしっかりした味を主張し、個性豊かな顔をしている。「うんうん、なるど」といいながら一つひとつの具材を分析する。っと何だか賢くなったような気になるから不思議だ。彼女はそんな自分に可笑しくなった。

 彼女はそこで再びサンドイッチを丸ごとガブリとかじり、モグモグと大きく口を動かしながら味わう。すると今度は世界を丸ごと味わうような喜びを感じて、また可笑しくなった。味わう、これこそ人間であることの醍醐味だ。彼女はそう思うとまた可笑しくなった。

 

 

「分類する男」

 

 その男はあらゆるものを分類している。その分類に何の意味があるのかと思うようなものまで執拗に分類する。だが男は真剣だ。それがその男の仕事だからだ。男の仕事は全ての物事に右か左かの分類をすることだ。それは思いのほかなかなか困難な作業である。

 

 男は今朝、いつもと変わりなく可もなく不可もなく目覚め、いつもと同じように妻の煎れた熱い目覚めのコーヒーを飲み、妻に熱い目覚めのキスを贈った。男はこのような朝の儀式を、もうかれこれ五千回ほど行なっている。妻はカーテンを開けながら弾むような声で言った。「あなた今日も好い天気よ」妻はいつも明るい。そして何ごとも意に返さないような大らかさがあった。男はそんな妻が好きであり、妻の大らかさの度合いは年を重ねる毎に豊かになっていく。その豊かさに合わせるように年々少しづつ育っていく妻のお腹を見るのも好きだった。男はいつもと同じように、そんな妻の用意した栄養たっぷりの朝食をとり、ズッシリとした重みのあるサンドイッチの包みを持って出勤した。男はその妻の愛情とボリュームたっぷりな食事を長年続けているにもかかわらず、何故か太る気配は一向になかった。多分体質なのだろう。

 男の勤める会社は彼の家から歩いて15分ほどのところにある。その道はやや起伏はあるものの単純な一本道だった。その道の両端には雑草が生い茂り、その雑草の中には色とりどりの小花が可憐に咲き誇っていた。その雑草の向こう側には青々とした畑が広がっている。男はそののどかな畑のなかを抜け、いつものように会社に着いた。男はいつものようにタイムカードを押した。タイムカードの時間は8時49分。そこまでは何ごともいつもと変わりなかった。だが男は今日は、いつもの一階のオフィスへは向かわず、二階のオフィスに向かった。 実は男は先日、辞令を受けていた。上司は男にこう言った。「君の誠実で正確な仕事ぶりをかって、是非君にまかせたい仕事がある。それは世界に関わる重要なプロジェクトだ。よければ、早速だが今度の金曜日からその仕事に取りかかってもらいたいのだが」

 男は上司の言葉に一瞬耳を疑った。男はどちらかというと、大らかな妻と違って何ごとにも心配性で、仕事はコツコツと積み上げるタイプで、いわゆる小さくまとまった地味な存在だった。そんな男にとって、こんな名誉な仕事を与えられることなど、今まで一度もなかった。にわかに男の中に芽生えた野心がチャンスを求め鼓動が高なった。男は落ち着こうと大きく息を吸い込むと、今度は未知への不安からか、心臓は急速に強張り、安全を求めて縮こまろうとする収縮感に襲われた。男の心は膨らむ野心と縮こまる不安との間で揺らいでいた。結局、男は戸惑いながらもノーと言えない気の弱さからその仕事を引き受けた。それでもその日は男にとって少しばかり晴れがましい気分を味わっていた。

 男は階段を上り二階の長い廊下を真っ直ぐに歩き、突き当たりの01号室のドアの前で立ち止まり、そこで少し大きめの深呼吸をすると力強くそして丁寧にドアを開けた。ドアは素直に開き男を招き入れた。だがそこにはごくありふれた一組の事務机と椅子、部屋の真ん中には何故か大柄なサンタクロースでも抱えきれないほどの大きな麻袋がデンと置かれていた。麻袋には「世界」という文字が焼き印されている。その麻袋の左右に大きなワゴンがあり、それぞれに「右」と「左」のプレートが付いていた。部屋は静寂で、人の気配はなかった。部屋は実に殺風景で、壁と天井は薄曇りの空のような寂し気でどんよりした灰色に塗られ、正面の壁には同じような灰色の味気ないサッシの四角い窓が一つあった。その窓の脇に、これまた灰色のスチール棚が一つあり、そこにはグレーなのかベージュなのか判別のつかないような色のプラスチック製のカゴやボックスが幾つも積み重なっていた。

 男はやや拍子抜けした気分でその部屋をしばらく眺めていた。期待を膨らませて扉を開けた分、男はその殺風景さにやや気落ちした。とはいうものの持ち前の真面目さから直ぐに気を取り直し机に向かった。男はサンドイッチの包みを机の端に置くと椅子に腰掛け背筋を伸ばした。机の上には仕事の指示が書かれた一枚の紙が置かれていた。

「ひとつ、袋の中のものをそれぞれの指示に従って右と左に分類すること。ひとつ、分類の仕事は今日中に完璧に終わらせること。以上」

 仕事の指示は実に単純明快だった。男はまたもや拍子抜けした気分で机から顔を上げると椅子の背もたれに身体を預け灰色の天井を見つめた。「それだけか」男はそう言うと意を決したように勢いよく椅子から立ち上がると、上着を脱いでそれを椅子の背もたれに掛け、両肘を二三回軽く後ろに引き、ふっぅと息を吐き、「さっさと片付けて、今夜は旨いワインでも開けるか」と声に出して言った。

 男は「世界」という文字が焼き印された麻袋に手をかけた。麻袋の大きさは男の両腕を広げても抱え込むことが出来ないほどの大きさだった。そのとき、男の頭の中に、これは妻のお腹の何倍あるのだろうかといった思いが一瞬頭をよぎり、思わず苦笑した。男が麻袋の口を開けるとその中には小さな麻袋がいっぱい詰まっていた。その中の一つを取出すと、その袋には同じように「世界」という文字が焼き印されていて、紐で縛られた口には『角のあるものは右に、角のないものは左に分類すること』と書かれたカードが付いていた。袋を開けて中を覗いてみると、そこには木でできた玩具のようなブロックが入っていた。男は棚からカゴを二つ持ってきて、机の左右の端に一つづつ置いた。まず袋から取出したのは四方が5cmほどの正立方体だった。男は迷わず右のカゴに入れた。次に取出したのは上半分が卵形で下半分が三角錐だった。男はそれも迷わず右のカゴへ入れた。

 続いて現れたのはアルプの彫刻のような全体に丸みを帯びたブロックだった。男はそれをカドのないものの左のカゴに入れた。さらに続けて取出すと、それは球体で、ところどころ指で押したような凹みがあった。その凹みを注意深く見てみると、凹みの一つに棒の角で押したようなものがあった。男は一瞬そこで手を止め、口元をゆがめてかすかに微笑むと、内側に凹んだ角だと言って、凹みを持つ球体を迷わず立方体と同じ右のカゴに入れた。その分類は順調に進み、呆気無く終了した。男は角のあるブロックの詰まったカゴを右のワゴンに、角のないブロックの詰まったカゴを左のワゴンにそれぞれ納めると、次の麻袋を取出した。

 その麻袋の口には『継ぎ目のあるものは右に、継ぎ目のないものは左に分類すること』と書かれたカードが付いていた。その袋の表には、やはり「世界」という文字が焼き印されていた。男がその袋を覗くと、今度はさまざまな形の縫いぐるみや人形が入っていた。男は一つ一つ慎重に縫い目や継ぎ目を探した。複雑な形のものになるとそれこそ舐めるように眺めまわし、継ぎ目を確認しながらカゴに入れていった。

 その分類もじき終わると、また右と左のワゴンにそれぞれを納め、次の麻袋を取出した。今度の麻袋にのカードには『哺乳類は右に、鳥類は左に分類すること』と書かれていた。そこにはネズミやスズメなどの動物のフイギュアが入っていた。男はネズミを右のカゴに、スズメを左のカゴに入れた。続いて取出したのがの虎だった。男は迷わず右のカゴに入れた。その次に取出したのはの駝鳥だった。男は一瞬苦笑して言った「飛べないオマエも一応鳥なんだろう」男はのフィギュアの駝鳥の長い首を掴んで左のカゴに入れた。その分類も順調に進み、最後の一つとなったものを取出すと、それはコウモリだった。男は大きく苦笑して言った「飛ぶ哺乳類」男はコウモリの足を摘まみ上げると目の高さでまじまじ観察しながらさらに言った「本当にオマエは哺乳類か?鳥に分類されてもよかったのになぁ」男は鳥にも思えるその哺乳類を右のカゴに入れた。そうして分類は順調に進んだ。

 男が腕時計を見るともう昼時になっていた。男は分類を終えたカゴをそれぞれ右と左のワゴンに納めると、机の上を払ってサンドイッチの包みに手をかけた。男は手拭きで念入りに手を拭くと、サンドイッチの包みを破り、具のたっぷり詰まったサンドイッチを手に取った。そのサンドイッチを一口口に入れると、口の中に爽やかな畑の香りとともに、シャキシャキしたレタスの歯ごたえとジューなトマトの酸味が広がった。続いてそのみずみずしさに塩味の効いたカリカリのベーコンと、ほどよい柔らかさのオムレツが絡み、さらに、ホクホクしたポテトサラダと甘酸っぱい人参とレーズンのサラダ、そしてカレー風味のグリルチキンが口の中で踊った。そのごったまぜの豊かさに男の口元はほころび、至福感で全身が緩んでいった。

 男はサンドイッチのランチを終えると、早々に仕事の続きに取りかかった。まず取出した麻袋には『使えるモノは右に、使えないモノは左に分類すること』と書かれたカードが付いていた。袋の中から出てきたものは大量の使いかけのペンや鉛筆だった。男は一つ一つ書けるか書けないか、確かめながら右と左のカゴに分類していった。だが、その判別は思いのほか戸惑うものだった。使えないとも言えるが、頑張ればまだ使えるとも言える、そんなふうに悩むものが思いの外多かった。男は一度右のカゴへ入れかけたものを左に入れ替えたりと作業に手間どった。中には三回も五回も往ったり来たりするものもあった。ようやくペンと鉛筆の分類が終わると、今度は『暖色は右に、寒色は左に分類すること』と書かれたカードだった。

 袋の中には大きなカラーカードが入っていた。男はそのカードを赤色系統は右に、青色系統は左にと手早く分類していった。だが、赤色系統と青色系統のぶつかる紫のカードが出現したとき男の手はピタリと止まってしまった。男はその紫のカードを手にしたまま暫くじっと眺めていたがやがて決心したように席を立つと灰色のスティール棚から灰色のボックスを取出してきて机の正面の端に置いた。 そして、「どちらでもないもの」と言って、その紫色のカードをそのボックスに入れた。 男は暖色カードの入ったカゴと、使えるものに分類したペンのカゴを右のワゴンに、寒色カードの入ったカゴと、使えないものに分類したペンと鉛筆のカゴを左のワゴンに納めた。が、何かしっくりこない思いが残った。しかし、男にはそんな思いに構っている暇は無さそうである。大きな袋の中にはまだまだ小さな袋がいっぱい入っている。男はそのしっくりこない思いを残しながら次に取りかかった。

 次に取出したその袋のカードには『女は右に、男は左に分類すること』と書かれていた。袋の中を覗くと幾つかの写真の束が入っていた。それは画面いっぱいにクローズアップされた顔写真だった。その顔写真はどれも素顔で澄ました顔をしていた。男は骨格のガッチリした堅い輪郭を持つ男の顔と、線が細く柔らかみを持つ女の顔を手早く分類していった。しかし、その互いの特徴は思いのほかかなりのところで混じり合い、曖昧になり、絡み合っている。男はその曖昧な顔を『どちらでもないもの』のボックスに入れていった。 顔写真の束は、民族ごとに束ねられていた。馴染みのない民族の顔では、さらに男女の分類は困難になっていき、『どちらでもないもの』のボックスの中はさらに増えていった。続いて取出した袋のカードには『正しい行いは右に、正しくない行いは左に分類すること』と書かれていた。中に入っていたのは短な文章の書かれたカードだった。

 男はそのカードを取出し、机の上に置いたまましばらく眺めていた。「これは案外厄介なことになりそうだ」男はそう呟くとカードから目を離し正面を見た。正面には四角いサッシの窓がある。窓越しに見えた空には、もうすでに夕方の光が混じりはじめていた。男は意を決したようにカードの分類に取りかかった。『カレーを手で食べること』「これは、カレーの国インドでは正式だ」そう言うと男は右の正しい行いのカゴへ入れた。つづいて『サンドイッチをナイフとフォークで食べること』男は思った「サンドイッチはむろん手掴かみで食べるためにある」男は左の正しくない行いのカゴへ手を延ばした。だが、男は気取ったレストランでは貴婦人たちがサンドイッチを上品にナイフとフォークで食べている姿を思い出した。男の手は降ろし場所を決めかねたまま宙に浮いてしまった。しばらくして男は正しい行いのカゴにそのカードを落とした。

 その次のカードは『右の頬を打たれらなら左の頬も差し出すこと』と書かれていた。男は思わず叫んだ「なんだって」。男は手に持っていたカードの束を荒っぽくめくっていった。カードには『つくり笑いをすること』『負けること』『盲になること』『全知全能になること』と書かれていた。男はだんだん腹が立ってきた。「こんなこと分類できるか」男は吐き捨てるように言うと、まとめて『どちらでもないもの』のボックスに入れた。その後も『ミルクティーはミルクから注ぐこと』『鯛焼きは尻尾から食べること』『靴下は右から履くこと』とカードは続き、『どちらでもないもの』のボックスの中はカードでいっぱいになていった

 男が『正しい行い』の分類を終えると、机の上には淡いオレンジ色の光が射し込んでいた。そのオレンジ色の光を見た男が大きく息を吸うと、夕暮れの空で鴉がカァーッと鳴いた。 男は、まさに吐き出そうとしていたその溜め息を飲み込み、『正しい行ないと正しくない行い』のカゴをワゴンに納めると、ためらいを捨て次の袋の分類にかかった。『笑っている顔は右に、泣いている顔は左に分類すること』『芸術家の絵は右に、子供のいたずら描きは左に分類すること』『スリップドレスは右に、スリップは左に分類すること』『ホテル用のカップは右に、カフェ用のカップは左に分類すること』『朝食用のパンは右に、昼食用のパンは左に分類すること』…。そうやって取出された袋の全てに『世界』と焼き印されていた。その世界に付けられた分類カードの内容は、もはや男には理解できないものばかりだった。『幸せな家族は右に、不幸せな家族は左に分類すること』『快音は右に、雑音は左に分類すること』『やって善いことは右に、やって悪いことは左に分類すること』…。言うまでもなく、『どちらでもないもの』のボックスの数はどんどん増えていった。それでもどうにかこうにか男は仕事を終え、全てのカゴを右と左のワゴンに納めた。窓の外はすでに真っ暗になっていた。

 男はその時、夕闇に浮かぶ我が家の窓を想った。窓から洩れる柔らかな黄色い灯りが恋しかった。その窓の灯りの下では妻が愛情を持って育てている花壇がある。その花壇では、南国に咲く目にも鮮やかな色の大輪の花と、高山の崖に人知れず咲く可憐な花とが隣り合わせに咲いている。妻には不釣り合いにも思えることをいとも簡単に調和させてしまう才能がある。男にとってそんな妻は、間違いなくある種の天才だと確信している。そんな妻の造る花壇は、洗練とはかけ離れているものの、男にとっては心の落着く花壇だった。男はそう思うと、もう居ても立ってもいられなくなり、椅子の背もたれに掛けてあった上着を荒っぽく掴むと、出口に向かって急ぎ足で歩き出した。男はドアの把手に手をかけ勢いよくドアに身体を当てた。だが、把手は空回りし、男はドアに弾かれて床に倒れてしまった。そのドアの把手には『仕事が完了するまで退室不可』と書かれた札がかかっていた。

 男は尻もちを着き、口を半開きにしたまま、しばらくその札を眺めていた。灰色のドアにかかった札は冷ややかな目で男を見つめている。そのとき男は、机の上の指示書の文言を思い出した。『今日中に完璧に分類の仕事を終わらすこと』男はそのままの姿勢で振り返り、机の脇に積まれた『どちらでもない』ボックスに目をやった。それは、確かにやりかけの仕事といえた。男は仕方なく仕事をやり直すことにした。『どちらでもないもの』のボックスの数は十数個あった。どれも分類不可のもので溢れていた。まず、男はボックスの上に重ねて積まれていた数枚の絵を取出し、床に並べてみた。絵は全部で六枚あった。芸術家の絵は右に、子供のいたずら描きは左にと言いながら一枚一枚眺めてみるが、何度見ても、どれも芸術家の絵のようにも、子供のいたずら描きのようにも見えてしまう。仕方なく男は右に並んだ三枚の絵を右の芸術家のカゴへ、左に並んだ三枚の絵を左の子供のいたずら描きのカゴに入れた。同じように男は『どちらでもないもの』のボックスの中のものを、適当に左右に振り分けて行った。

 根が生真面目な男の心は、後ろめたさと敗北感におそわれたものの、とにかく仕事を終えたこととした。男はそれらを左右のワゴンに納めると、急いでドアに向かい把手を廻した。がドアは開かれなかった。仕方なく、『どちらでもないもの』の分類をやり直すことにした。だが、どんなに分類し直しても完璧に仕事を終わらすことは不可能だった。『どちらでもないもの』のボックスには、分類しようのないものが幾つも残っていた。男はその中から無作為にひとつを摘まみ上げた。それは紫色のカードだった。男は紫色のカードを手にとり、しばらく眺めた後、カードの両端を持って前後に引っ張ってみた。が、カードは残念ながら男の意に反して破れてはくれなかった。そこで男は仕方なくそのカードをズボンの後ろポケットに無造作に仕舞い込んだ。次いで男は、分類しきれなかったものたちをズボンやシャツや上着のポケットに無理やり詰め込んだ。男の身体は不格好そのものになり、『どちらでもないもの』のボックスはなんとか空になった。

 男の敗北感はいっそう色濃くなったが、切羽詰まった気持ちがそんなことをとるに足らないものにしていた。男は今や一刻も早くここを出て、妻の待つ我が家へ帰りたくてしょうがなかった。灰色一色のこの部屋がまるで男の墓場のように思えてきたのだ。男は空になった『どちらでもないもの』のボックスを再度確認すると、灰色のドアに向かって足音をたてながら歩み寄った。ドアの把手をしっかり掴み、ゆっくりと廻した。しかし、把手は空回りするだけだった。男はその把手にぶら下がっている札をあらためて読んだ。『今日中に完璧に分類の仕事を終わらすこと』男はズボンの後ろポケットに手をやり、しばらくの間その札を睨んでいた。やがて男はポケットの中の紫色のカードを取出すと、机の引き出しの中からハサミを取り出し、カードを半分に切り出した。が、カードは思いのほか堅くて切れなかった。男は「畜生!」と吐き捨てるように言うと、カードを机の上に叩き付けた。男の顔に苛立ちの色が色濃く浮き上がり、苛立ちでメラメラ燃える二つの目は紫色のカードを睨んでいた。

 それでも男はなんとか苛立ちを押さえながら、どうすべきかを必死に考えていた。机の上にはカードとともにハサミが放り出され、引き出しが半開きになっている。その引き出しから煙草と灰皿が覗いていた。男は、その煙草と灰皿を取出し、「こんなとき煙草でも吸えるといいんだが」と呟いた。男は煙草が吸えなかった。男は苦笑しながら、冷静さを取り戻し、椅子に腰掛けようとしたとき、男はある考えを思いついた。そこで、引き出しを急いで探ってみると、男の思い通りにライターが出てきた。男はライターを取出し点火を確かめた。ライターの炎は思いのほか勢いが良く、それを見た男は自分の企みを思い、思わず口元がを歪めた。だが男はのんびり炎を眺めている時間はない。男は急いで、体中のポケットに詰め込んだ、分類できなかったものたちを机の脇にあったスチール製のゴミ箱に投げ入れた。身軽になった男は再びライターを点火させ、勢いよく吹き出す炎を確かめると、紫色のカードに火を付けた。カードは意外にも簡単に燃え上がった。

 男は燃え上がった紫色のカードを『どちらでもないもの』を投げ込んだゴミ箱の中に落としすと、『とちらでもないもの』たちはいとも簡単に炎に包まれ、轟々と勢い良く燃えだした。男は、その炎を黙って見守った。やがて炎は『どちらでもないもの』たちを跡形もないほどすっかり燃え尽くすと自然に消え、辺りは元の殺風景さと静寂を取り戻した。男の中にも何かが燃え尽きたようなときの脱力感を伴った静寂が訪れた。だが、男はそんな静寂に酔いしれている間もなく、急いで出口に向かって歩き出した。

 男は一歩二歩三歩と勢いよく踏み出したとき、突然口に蓋されたような思いで息を呑んだ。男の見開かれた目は出口のある灰色の壁に釘付けになり、男の心臓は大きくうねった。そこには、さっきまで一つだった灰色のドアが二つ並んでいた。男が狼狽しながらも、とにかく一方のドアに手を掛け把手を廻すとドアは素直に開いた。男がそのドアからそっと小さめの一歩を廊下に踏み出すと、今度は一本道だったはずの廊下が、今や二股に分かれている。男は慌ててドアを閉め、急いでもう一方のドアを開いてみた。するとそこにも同じように二股に分かれた廊下が延びていた。男は慌てて目を閉じると同時に勢いよくドアを閉め、その恐ろしい現実に背を向けるようにして、ドアを背に立ちすくんだ。その男の正面には、さっきまで一つしかなかった四角いサッシの窓が、今や何故か二つ並んでいる。どちらも真っ暗な闇を映し出していた。

 男の目は大きく見開かれ、呼吸はいっそう荒くなっていった。その闇の向こうに男は無意識のうちに何かを必死に見つけようとしていた。しばらくすると闇の中から人の顔が浮かび上がってきた。顔は二つの窓枠によって半分に分断されている。男がそれを妻の顔と認識したとき、男は我に帰ったようにドアに向き直り、把手を廻して外に出ていった。男が左右どちらのドアから出て行ったのか男自身にも覚えがない。だが、とにかく男は部屋の外に出た。男の目の前には二股の廊下が延びている。男は後ろ手にドアの把手を探ってみたが探り当てられなかった。そこで男が振り返ってみると、今出てきたドアが消えていた。

 男はもう驚いている余裕はなかった。二股に分かれている廊下を目の前に、男は慎重に考え、右を選んで進んで行った。廊下の先に階段が見えてきた。そこでも階段は二股に分かれている。今度は左を選んで進んで行った。階段を下り、会社のエントランスに着くとエントランスの出口は二つになっていた。男は二つの出口を目の前に、これで二股の道が終わりになることを願いながら、慎重に考えた。男はようやく左を選んで会社の建物の外に出た。だが結果は同じだった。一本道だった我が家への帰り道はここでも二股に分かれていた。

 男の口は思わず息を呑み、胸は不安で張り裂けそうになり、足は地面に釘付けされたように動けなくなった。 だが、男は我が家に帰りたい一心でその道を踏み出した。男はもはや、どちらかを選ぶことも出来ず足の踏み出すまま歩いて行った。我が家への帰り道は行く先々で二股が現れた。男は惑わされるまま迷い道を歩き続けた。そんな男の目は我が家の面影を求めて彷徨っていた。窓灯りの下で幻想的に照らし出される花壇の花々。ボリュームたっぷりな朝食。そして大らかな豊かさで満ちた妻の笑顔。だが我が家を懐かしむ男の足は、次第に力強さを失い、のろのろ歩きになっていた。そして今にも足が止まりようになった時、男は今朝の自分の思いつきを思い出した。「そうだ、今夜は妻と旨いワインを開けよう」男は、再び妻を求めて暗闇の別れ道を勢いよく歩き始めた。その足は急いでいた。「もうすぐだ、もうすぐ二人でワインを開けよう」男は何度も何度も声に出して言う。だが、その声は男の耳をかすめ、闇の中へ消えていく。この時、男は闇に吸い込まれる男の言葉のように、目の前の道が、妻からどんどん遠ざかり、闇に向かって突き進んでいるような不安に襲われるのだった。

 不安と疲労で浮き足だった男はついに足を取られて地面に倒れ込んだ。そこは泥の中だった。男は転んだまま、泥のまとわりつくような重たい湿っぽさに半身を浸していた。その湿っぽさはじわじわと肌の奥深くにまで浸透してきた。決して愉快とは思えないその感覚に、男は何故か妙に懐かしさと温もりを感じるのだった。その温もりは母の腕の中のようだった。気がつくと男は全身泥だらけで仰向けになっていた。男は泥の重みで身体が重く沈んでいくような感覚に身をまかせ、抵抗しがたい脱力感と、沈んでいるのか昇っているのか分からないような浮遊感を味わっていた。男は何故か脱力感と浮遊感の中で不思議とこう思うのだった。「これでようやく我が家に帰えれる」

 

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No.5 夜も更け、田舎の静けさは一層深まっていた

No.5 夜も更け、田舎の静けさは一層深まっていた 

 

 夜も更け、田舎の静けさは一層深まっていた。リビングのテーブルの真ん中に、高級コールガールのような、ツンっと澄ました顔をした黒い箱がひとつ置かれている。その箱に収まった魅惑的なチョコレートが「おひとつ如何」と彼女を誘っている。彼女はその甘い誘惑と睨めっこをしながら、田舎に引きこもり、世間から距離をおいた大叔母の生き方について考えていた。浮かんでくるイメージはどこか不器用なイメージだ。それは彼女にも通じるものがあるように思え、何だか胸騒ぎを覚える。その不器用さはどこからくるのだろうか。

 彼女にとって世間は謎であり正体を図りかねている。従って彼女はいつも、世間が幅を利かせるところでは躊躇いがちに生きている。彼女はそんな謎めいた世間に目を瞑って飛び込む覚悟も勇気もなかった。したがって彼女は世間に対して、どこか観察者のような立場でいた。そんな彼女は世間の波に乗ることを躊躇い、枠に嵌ることを躊躇った。

 一方で、世間に疑いを持たない人たちが、この世間を大らかに自由に渡って行くのを横目で見ていた。彼女は何だか自分がとてもネガティブな人間に思え、劣等感を覚えていた。そして、現実的で要領の良い人たちをちょっぴり羨ましくも思っていた。

 

 

ブラックボックス

 

 私はその黒い箱を目の前に、妹とふたり大理石の大きなテーブルを前に並んで座っている。その黒い箱、つまりブラックボックスはテーブルの中央よりやや左寄りの位置にある。テーブルの大きさは、だいたい長さ2.5メートル、巾1.2メールぐらいで、ブラックボックスの大きさは、長さ60センチ、幅40センチ、高さ40センチぐらいだった。

 部屋には隣に並んで座っている妹と、私のふたりだけだった。妹は右隣りに座っている。その部屋はオフホワイトを基調とした品の好さが漂うダイニングだった。ただ、余分な調度品は一切ない。磨き抜かれた大理石の床とテーブル。椅子は私と妹の座っている二脚だけ、高い天井にはクリスタルの照明。窓はない。ひとつだけあるドアからは、人の出入りする気配はまったくない。空気は乾いていて、僅かな物音でも尖った音で響いてしまいそうだ。

 テーブルの上の長方形のブラックボックスは私の真正面にあり、長方形の長い方の側面を私に見せている。その左右に、小さなラッパの先のような形をしたものがついている。私がじっとそのブラックボックスを眺めていると、突然、左上の方の空間から何かが生れた。それは光のようなモヤのようなものだった。そしてその何かは、ブラックボックスの左の端のラッパ口に吸い込まれるようにして消えた。しばらくすると、今度はブラックボックスの右端のラッパ口から、何かがゴロッと出てきた。それはなんとも美味しそうな色の果実だった。こんな見事な果実は見たことがない。

 いったい、これは何だろうと思っていると、右にいた妹が、すっと手を伸ばして、その果実を手にした。私はそれを黙って見ていた。すると、妹は大きな口を開けたかと思うとガブリと一口かじり、実に美味しそうな顔をした。妹はその果実を最後まで綺麗に食べ、満足そうな顔でニッと笑った。私はただ見ていただけだった。仕方なく、私はまたブラックボックスを見ていた。すると、また左上の空間から光のようなモヤのようなものが生れ、ブラックボックスの左側のラッパ口から吸い込まれていった。

 しばらくすると、またブラックボックスの右側のラッパ口から、大きな果実がゴロッと出てきた。やはり、見たことのない見事な果実だった。果実は転がって妹の前で止まった。妹はまたニッと笑って、果実を手に取りガブリガブリと食べはじめた。すべて食べ終わると満足そうな顔でまたニッと笑った。私はまた見ていただけだった。そのとき、少しだけ何だか残念な気がした。そしてまた、私はブラックボックスを見つめた。ブラックボックスは、じっと黙ったままそこに在る。私は注意深く耳を澄ましてみたが、何も聴こえなかった。

 しばらくすると、また左上の空間から光のようなモヤのようなものが生れ、ブラックボックスの左側のラッパ口から吸い込まれていった。今度もまた、ブラックボックスの右側のラッパ口から見事な果実が出てきた。私は考えた。「手を出そうかどうしようか」その得体の知れない果実をじっと見ながら考えていると、そこへ妹の手がすっと伸びてきて、その果実を掴んでいった。妹はまたその果実を美味しそうに食べ、満足そうにニッと笑った。私はなんだかとっても残念に思えた。しかし私は、やはりブラックボックスのことが気にかかってしょうがない。

 再び私はブラックボックスを眺めた。以前より、より力を込めて眺めた。するとまた、今度も左上の空間から光のようなモヤのようなものが生れ、ブラックボックスの左側のラッパ口から吸い込まれていって、右側のラッパ口から見事な果実が生み出された。私はとってもその果実が欲しくなった。しかしブラックボックスの正体が気になってしょうがない。私はブラックボックスを睨みながら果実も睨んだ。そうしながらも私はその果実が欲しくて欲しくてたまらない。しかし私の手は一向に動く気配がない。そのうちまた妹の手が伸びてきて、果実を掴んでガブリガブリと食べニッと笑った。

 私は、少し動揺してきた。そして今度こそと全身に力を込め、またブラックボックスを睨んだ。そしてまた左上の空間から光のようなモヤのようなものが生れ、ブラックボックスの左側のラッパ口から吸い込まれていって、右側のラッパ口から果実が生み出された。私は果実をまるで親の敵のように睨んでいた。そして必死に手を伸ばそうとするが、何故か手の方は一向に私のいうことをきかない。全身の力を込め、息を詰めて睨みつづける私の顔は、しまいに茹で蛸のように赤くなった。顔を真っ赤にした私はすっかり頭がのぼせてしまったようだった。頭がボーッとしてきて、目の前の果実がゆらゆら揺れだしたかと思ったら、果実は魔法のように消えてしまった。 私はまたとっても残念に思った。

 こうなったらブラックボックスの中がどうしても知りたくなった。何故そう思ったかは私にも分からない。何故だか分からないが、とにかく猛烈に知りたくなったのだ。そこで私はブラックボックスを再び親の敵のように睨んだ。全身の力を込め、息を詰めて睨みつづけた。私の顔は再び茹で蛸のように真っ赤になり、頭がボーッとしてきた。続いていよいよ、ブラックボックスがゆらゆらしてきた。それでも息を詰め、そのまま睨みつづけると、ついに私の目の前からブラックボックスが消えた。

 私はしばらくして、ようやく呼吸を取り戻すと、ぼやけていた視界が徐々に戻ってきた。するとそこは何もない誰もいない白い空間だった。そのとき私は思った。「ああ、私はブラックボックスの中に入ったんだな」と。しばらく私はブラックボックスの中を眺めていた。そして何かが起こるのを待った。しかし何ごとも起こらなかった。何の音もしなかった。私は思った。「私の姿はきっと、世間から消えてしまったのだろう」少なくとも私がここに居る以上世間から姿を消してしまったに等しいことは確実なように思われた。少し寂しいような気がした。それでもこの静寂な空間は、それはそれで悪くないような気がしてきた。

 しばらくその何もない静寂な空間にひたっていると、何もない空間から突然光のようなモヤのようなものが生れた。それから私は、あの色鮮やかな見事な果実を思い出して思った。「ああ、せめて一口、ガブリとやってもよかったな」すると目の前が急に暗くなったかと思うと、私はブラックボックスの右側のラッパ口を通って、 ゴロッと外に生み出されていた。目の前には、妹の巨大な顔があった。

 

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No.4 染み一つない完璧さ、母がどんな人かと聞かれたら

No.4 染み一つない完璧さ、母がどんな人かと聞かれたら 

 

 染み一つない完璧さ、母がどんな人かと聞かれたらそう答えるだろう。母は几帳面な人だった。几帳面と言うより完璧主義者と言った方が正しいかもしれない。いやそれとも少し違う、完璧になりたかった人、あるいは完璧に見られたかった人かもしれない。彼女はダイニングテーブルの端に見つけた黒い小さな染みを眺めながら、そんなことを考えていた。染みはテーブルのところどころにあった。どうやら焦げ跡のようだ。大叔母は何をしていてテーブルを焦がしたのだろう。

 母は良き主婦であり、センスの良い人だった。家はいつも掃除が行き届き、衣服の染みやシワは素早く取り除かれた。染み一つない、シワ一つない装いは、母の持ち前のセンスの良さを一層際立たせていた。母は美しくあることに、美しく見られることに努めた人だった。さらに母は記憶力も良く、人やモノの名前を正確に覚える才能を持っていた。そして正しい人、善き人と評価されることにも拘った。完璧に正しい人、善き人であることは人間にはあまりに困難だ。

 彼女は母と違い、比較的鷹揚でややルーズな質だった。ぼんやりとすることも多く、よく躓く子だった。そんな彼女だから、彼女に対する母の評価はすこぶる悪かった。彼女は自分と母は根本的な何かが違っていると感じていた。

 「自分は誰の血をひいたのだろう」彼女はそんな思いを浮かべながら改めてテーブルに残された焦げ跡を見た。「もしかしたら私は大叔母の血をひいているのかもしれない」彼女は苦笑した。

 

 

「マルタの家」

 

 私には、マリヤという妹がいた。彼女とはもうだいぶ長いこと会っていない。私の手にはかなり使い込んだモップがひとつ、しっかり握りしめられている。今、私の眼は壁を睨んでいる。その壁にはうずらの卵ほどの大きさの灰色のモヤが浮んでいる。「ススだろうか」私はモップで壁のススを退治した。この家は、床も壁も天井も真っ白に磨きあげられている。勿論、私がこの使い込んだモップで磨きあげた。この家がこれほどまでに清潔でいられるのは、ひとえに、私の努力の賜だ。私は人一倍努力している。いや、人の百倍ぐらいだ。つまり、私は四六時中掃除をしてまわっている。

 居間の中央には、四角張ったシェーカー家具のような、質素なダイニングセットが一組。その椅子の座面は堅く、椅子の背はピンと張った背筋のように真っ直ぐに伸び、頭の後までしっかりと届いている。テーブルは、素っ気ないほどシンプルだ。テーブルの上には指紋のひとつすらついていない。寝室には、同じく質素で四角張ったベッドがひとつと、クローゼットがひとつ。クローゼットの中には、白い衣類が整然と並んでいる。

 私はこの静かで、清潔で、整った生活を保つために常に働かなくてはならない。空気は必ず淀むしドレスも必ずシワになる。埃は何処からともなく部屋に侵入してくるしで、油断も隙もあったものじゃない。私はこの家の主人なのか家政婦なのか分からなくなるほどだ。私はこれほどまでに努力している。にも拘らず静かで満ち足りた暮らしはなかなか訪れない。この数年、心が休まるような時を殆ど過ごしていない。神はいったい何時、私に平和と安らぎをくださるというのだ。私は時折り妹のことを思い起こす。彼女の名前はマリヤ。

 ドレスにアイロンを掛ける。シワがすっかり伸びるまで念入りにアイロンを掛けた。ドレスは洗濯する度、アイロンを掛ける度に柔らかな風合いと艶を失い、痛々しく痩せていくように感じる。清潔でシワひとつ無い、痩せたドレスを着る。私はクローゼットの扉の表にはめ込まれた鏡で、自分の全身を映した。ドレスが痩せた分だけ、自分の身体も痩せたように感じた。

 鏡に映った骨張った私の顔、これは私の顔だろうか。妹はどんな顔をしていただろうか。私の白い肌、スレンダーな身体には染みやぜい肉といった無駄なものは決して見当たらない。確か妹の肌はこれほど白くはないが、艶とハリがあった。その身体はほど好くふっくらしていたと思う。最近妹のことがなかなか思い出せない。思い出すのがどんどん困難になっていく。何故かとても大切なものが私からどんどん遠のくようだ。 一番大切なものを失おうとしているのだろうか。気の滅入る不安におそわれる。

 この部屋は静寂だ。そう言えば、妹はよく笑っていた。どんな風に笑っていただろうか。なかなか思い出せない。妹は何故笑ったのだろうか、妹の声はどんな声だっただろうか、妹の名前は、妹の名前は何だったっけ…。

 私は手に持っていたモップを握り直し、床を掃除しはじめた。いつものように床を壁を天井を徹底的に磨きあげ、ドレスを洗濯し、シーツにアイロンを掛け、家具の位置をきっちりと直し、クローゼットの衣類を歪みなく整頓し、食器の曇りを磨きあげる。この家を恥ずかしくない家にするためにやることは山ほどある。

 

エピローグ

 一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へ入られた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。この女にはマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。ところが、マルタは接待のことで忙しく心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてはならないものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」

新約聖書 ルカによる福音第10章)

 

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